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投稿 谷口良雄 HP編集 中村一彦
2022年末、LSCの中村さんから 「知り合いがミャンマーの日本語学校の日本語教師をさがしているが、どう?」と話があった。ミャンマーは、国内が紛争中でもあったが、中国で長年日本語を教えていた経験もあり、外国人の日本語教育に興味があったことから受けることにしました。
日本語学校はミャンマーの主都ネーピードの南約1800Kmにあるミャンマーの最大都市ヤンゴンにある。年中 気温が37度から40度前後の常夏です。
ヤンゴンでは、雨季にはたびたびスコールの激しい雨音のため、ときどき授業が中断させられることがあります。それは、話が聞こえなくなるからです。
また乾季でも、時にはいきなり雨が降りだすこともあります。
そんな時に学生は「あっ 雨だ!先生 失礼します!」と言いながらクラスの半数近くが教室を飛び出す。外に干してある洗濯物を取り込むためです。
ここでは、そんな日常の学校での様子を中心にお話し致します!
ミャンマーの寺院が東松山にあると聞いたので参考にと、赴任前に見に行った。
ヤンゴンについた日の夕方、社長(日本語学校の経営者)夫妻と食事
ミャンマーの海鮮料理
ミャンマーの国民食といわれる“ムヒンガ-”
ミャンマーでは一般的な
カレンダー
サッカーと同じように人気がある ミャンマーの「蹴鞠けまり」
チンロン。
与えられた私の部屋。
学生寮は二階にあり、この部屋は一階。壁の隣は教室。家具はベッドと本棚だけ。カーテンは両端まで届かない短さ。机がなかったので隣の教室から勝手に部屋に持ち込んだ。椅子も。エアコンも無かったので、頼んで入れてもらった。入るまでの一週間は40度前後の暑さに耐えなければならなかった。しかし、停電が毎日8~10時間あるのでエアコンは止まる。
事務所は発電機があるのでエアコンは大丈夫だが・・・・。
3月 4月 5月は一年で最高に暑い時期。そのため外で寝る生徒があちらこちらに。
まるで避難民のようにみえた。
水浴、洗濯はここでする。ミャンマー人は人前で素っ裸になる習慣はないのでパンツかショートパンツ、またはロンジン(巻きスカート)を身に着ける。
女性はロンジン付をけている。
夕食後、ギターを弾きながら歌いくつろぐ生徒。ギターが弾ける生徒は結構多い。
ミャンマー到着後初めての日曜日、ヤンゴン最大の寺院‘’シュエダゴンパゴダ。
辛い料理が多い中で、比較的に合った麺料理。
レストランのメニュー、右側は料金。数字で表すレストランもあるが・・・
日本語学校はこのような住宅地に囲まれている。
高級住宅街の隣を流れている川の対岸には、このような平屋の住宅街が。電気や上下水道は引かれていない
パンをコーヒの中に浸して食べるのが普通らしい
ヤンゴン最大のカソリック教会、セントメリー教会。クリスチャンの学生に何回か連れて行ってもらったが、ミャンマー語なのでさっぱりわからず、賛美歌だけは
電光表示のアルファベットで何とか読めた。
この教会はイギリス人が宣教に来て建てた、歴史ある建物。なお、ミャンマーのキリスト教人口はおよそ7%といわれている(日本は約1%)
会堂の内部。装飾が素晴らしい。なお、教会に集う年齢層で日本と違うのは、比較的に若い層が目立つことだ。
ヤンゴン市内のカントジー湖に浮かぶレストラン兼ホテル。
ヤンゴン市内の環状線、東京の山の手線と同じくらいの距離を一周3時間かけて走る。ただし、一周するダイヤは1にちに1本だけ。 他は途中止まりのダイヤ編成。
ドアーも窓も開けたまま走る。時速20㎞なので危険ではない?地元の人の話では「いつでも乗れて、いつでも降りられるように」とか。
なお、この電車の行先表示は「快速 岐阜行き」だった。
駅のホームで遊んでいた少年と。 ベンチに座っていた時、少年のひとりが私の前にやってきて、突然ひざまついて両手と額を地面につけて3度拝むようなことをした。そして 素早く立ち去った。私は驚いて 生徒に
いったい どうしたの?」と尋ねたところ、「あの子は お年寄りに対する尊敬の気持ちを表したんです」と答えた。
日本語教師だけのlunch meeting。私が提案し、学校近くのレストランで月一回、定例のコミュニケーションを持つようにした。
レストランでの鍋料理、人数が多いとき このような鍋をとることが多い
日本語学校を修了して、いよいよ日本に向けて出発する日に学校前でお別れの記念撮影。
12月23日、24日は学校周辺の家々を訪れ、クリスマスの歌を唄って祝った。
昼間は37度~40度、夜になっても32度前後で、「これはたまらん」と、寮の前にある砂で埋まった子ども用プールを改良して遊んだ。
全身を水に浸したのは何年振りか。気持ちがいい!
日本に行くことが決まっての送別会・解散会。
四月は水祭り(ティンジャン)の行事。いくつかの少数民族の踊りが披露された。
軍事クーデター以後は、「軍事政権が設置する水祭り会場(市内数カ所)には参加しないで、自宅前の路上で水をかけ合った市民が多い、という」
水をかける人も かけられる人もワイワイ、キャーキャーと とっても賑やか。
水かけ祭りは二日間続く。
生徒四人と教師一人と一緒にヤンゴン市内のチャイナタウンで食事。
日本に旅立つ生徒を見送りに来た僧侶、・・・青年は日本語学校修了後に、頭髪を短くしてお寺に籠った(ヤンゴンンゴン国際空港で)
彼(後列左から三人目)の家族と親戚。
彼の両端が両親、前列左から二人目は妹、前列右端は弟。
こうして空港まで見送りに来る家族はとても少ない。
多くの生徒の故郷はヤンゴン市以外の郊外や田舎。
内戦が激しくなっているために、道路が寸断されていたり、国軍が通行止めにしているので路線バスは運航中止していることが多い。
母親は涙を流しながら息子と別れを惜しむ。
街を歩いていると、消防署に “JAPAN”と記された消防車を見かけた。反対側には日の丸とミャンマーの国旗が描かれていた。
ヤンゴン市内の観光名所の一つ。シュエダゴン パコダの前で。
ヤンゴン市内の目抜き通り。
生徒が持っているバイクに乗せてもらって、スーパーへ買い物に。
教室の様子。
校庭で全校集会、社長兼校長は授業中でも お構いなく「今すぐ 全員集合せよ」と招集をかける。
大して急ぎの内容でもないのに・・・・・。その心理が理解出来ない・・・・。
ミャンマーの常識は 日本の非常識?
クラスの解散式*卒業式
教室ではミャンマー料理を作ってみんなでお別れの食事。
卒業の日に床に座って祈り、そして両手と額を床につけて感謝の気持ちを表すのがミャンマーの習慣、文化。
7月7日の七夕飾り、教師の一人が自宅の庭から持ってきた竹に皆で願い事を書いた。
願い事は意味不明なものもあったが、「無事に日本へいけますように」とか、「戦争が早く終わりますように」等が書かれている。
学校の隣を流れる川、砂利運搬船が一日中通過する。
夜になると川べりの公園に集まって、食べたり飲んだり、歌ったりする。
受業の合間に気分転換の意味で、ダンスをした。チョットだけのつもりが90分間を使ってしまった、なんてことも。
生徒を連れてヤンゴン市内の高層ビルの中にある「ヤンゴン日本人会」を訪れた。
これも気分転換の一環(のうもり)で・・・・「横並び一斉じゃんけんゲーム」
ゲームのようで、そうじゃない。
土曜日の夜の
「日本語コーナー」
「終わりに&追記」谷口良雄
道路は川のようになり、水が膝近くまである道を歩いてスーパーなどに行かざるを得ません。
革靴やスニーカーなどを履いている人はまずいません。私も地元の人と同じようにサンダルばきで、時にはショートパンツで外出します。
教室にはエアコンがないので常に窓を開けています。
大きな雨音で、この時も授業が中断されます。教師や生徒の話が聞こえなくなるからです。また、乾季の季節でもしばしば いきなり雨が降り出し、「あっ!雨だ!先生失礼します!」と言って、半数ほどの生徒が急いで教室を飛び出します。
外に干してある洗濯物を取込みに行くためです。
何が起きるか予測がつかないことが多いのですが、みんな優しく明るく、そして素直な人が多いです。
3食とも学校の食堂で生徒と一緒に食事をしますが、その時は出来るだけ個人的な質問などをして、一人一人の背景を聞き出します。言語上のギャップで詳しく知ることは難しい面もあります。
特に政治的な話題はこちらから切り出さないと話してくれません。でも、決して言いたくないのではなく、そこまでの日本語力がないためであり、聞けば大抵答えてくれます。故郷や家庭の様子を尋ねると「私の家は国軍に放火された。村の大半は壊された。家族や村人は山や森、あるいはお寺に避難した」という話は何人もから聞くことが出来ました。中には「私の兄は国軍と戦って殺された」とか「友だちの何人かは少数民族武装軍に入っていて国軍と戦っている」と話す人もいました。さらに「故郷に帰ることが出来なくなった。道路は封鎖され、電話回線やインターネットが遮断されている。家族が無事にいるのか、家が壊されずに今でもあるのか、もわからない」という生徒もかなりいました。
ミャンマー全土の半数は、インターネットや電話回線が遮断されているとのニュースがあります。卒業したが故郷に帰れなくなって、そのまま学校に泊まり込んでいる生徒は数十人に上りま「内戦の避難民」ともいう人たちです。
軍事クーデターから23年9月で既に3年半、各地の戦闘は収まるどこ.ろか、ますます全土に拡がりつつあります。24年9月10日、民主派NUG(国民統一政府)の大統領代行が演説しました。「我々は最後には必ず勝利する」と。今、世界の各地で戦争や紛争が起きていて、ミャンマー情勢はほとんど報道されなくなりました。国内外の避難民は300万人以上とも言われ、国連によるとミャンマー国民の半数は極貧状態にあると発表されています。
一時期は「アジア最後のフロンティア」言われ、外国から(日本からも)多くの企業が進出して来ました。しかし、軍事クーデター以降は引き揚げる企業が続出して経済は著しく失速しました。欧米からの経済制裁でも大きな打撃を受けています。その上、ミャンマー軍は最近、軍事費を大幅に増やしました。今、多くのミャンマーの若者が日本に働きに来ています。内戦で家が壊され、家族と連絡を断たれた人も多いはずです。
日本で、ご近所で、ミャンマーの若者(特に)見かけたら、ぜひ ひとこと声をかけてあげてください。母国の言葉を耳にすると、きっと心が和むことでしょう。嬉しい気持ちになるかも知れません。仕事以外で一般の市民と接する機会はほとんどない、とよく耳にしますから。(「こんにちわ!」は「ミンガラバ」と言います。
以上
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