ミャンマー奮闘記(1) 

投稿:谷口良雄  編集:中村一彦 

私がミャンマーに行くきっかけになったのは、LSCの中村さんからのお話でした。「知り合いが、ミャンマーでの日本教師を募集しているがどうか」ということでした。

私は「この歳(年寄り)で採用されるのは無理でしょう」と懸念を表しましたが、年齢は関係なさそう、とのことでした。周りからは「ミャンマーって政情不安で危ないんでしょう?」とか,「そんなところに行くのはやめたら?」とか、子どもからは「何があってもミャンマーには行かないからね」などと言われました。

私は、軍事政権下の民衆の生活に関心があったのと、単なる好奇心、野次馬根性のせいで、それほど心配はしませんでした。そして、ミャンマー側とのzoom面接を終え、書類を提出し、結果的に517日にヤンゴン空港に降り立ちました。

東京からミャンマーまでは、
約4000Km
5月17日成田空港9:15発タイエアーアジア航空(エアバスA330型に登上して、ミャンマーに向かう。タイ・スアンナプーム空港でヤンゴン行きに乗換
ミャンマーのヤンゴン空港に着いた時はホットしましたが、出迎えるはずの社長の姿は見えず、焦りましたが、5分ほど待たされてロンジン姿で、現れました。

ミャンマーはラオス、タイ、タイ、バングラディシュ等と接しています。

ヤンゴン空港では、私が赴任する学校の日本語研修を終えた技能実習生が、これから飛行機で日本に行こうとする場面に出くわしました。

4人の青年は北海道の大手自動車メーカーの工場で働くということです。

私を迎えに来た社長と共に、彼らとは握手と励ましの言葉を交わして見送りました。

車から見る初めてのヤンゴン市内は、道路の舗装状態、道路際の個人商店、街を歩く人の服装,雰囲気などは日本の地方都市の昭和30〜40年代を想わせるものでした。

違うのは、民族衣装(ロンジー)をつけた人や、僧侶、そしてサイドカー(バイクにリヤカーを取り付けたような3輪タクシー)が目立つことでした。

また、街中の広告や店の表示はミャンマー語の丸っこい文字ばかりでさっぱりわかりません。

夕方、学校に到着すると早速 事務所のスタッフと日本語教師の全員の紹介がありました。

そして、校内の食堂や教室を確認してから私が住む部屋を案内して貰いました。

建物の2階が学生の寮で、私の部屋は一階です。

私の部屋のすぐ隣はなんと!教室でした。

さらに、部屋への出入りには教室を通らなければならないのです。

翌日以降、学生たちが教室にいる時間に自分の部屋へ(から)出入りする羽目になってしまいました。

部屋はおよそ10畳大の1部屋で、ベッドとスチール製の棚があるだけです。

机も椅子もないので、教室にある物を一式自分で勝手に移動しました。

トイレとシャワー室が部屋とは別にあるのですが、排水管が壊れていて水は出ません。

直すようお願いしましたが、構造上回復は不可能という事でした。

では、シャワーはどうするのか⁉️

寮のすぐ隣に大きなドラム缶が置いてあって、水道水をその中に溜めます。浴槽などという贅沢なものは夢のようです。

学生たちや私は、ドラム缶の水を洗面器ですくって頭から浴びます。お湯じゃなく、水を浴びる生活は私の記憶にある限りでは初めての体験です。シャワーを浴びるときは このドラム缶に溜めた水を使います。お湯はありません

初めは全身に水浴びは冷たくて出来ませんでしたが、いつまでもそんなことはしていられません。2日目にはもう、慣れるしかありませんでした。

洗濯物もこの場で洗います。

学生たちはコンクリートの床の上に衣服を拡げてブラシでコシゴシ洗います。そんな洗い方では生地が傷むのでは!と、心配な私。彼らは人前で全裸になることはしません。必ずパンツかロンジー(ミャンマー特有の巻きスカートのようなもの)を穿いた(着けた)まま身体を洗います。

私のシンプルな部屋。

ヤンゴン空港から車で学校に向かう途中の街の風景
週末の土曜日の夜、近くの広場でダンスを楽しむ学生たち。私も一度だけ輪に加わりました。
ヤンゴン市内を走る、日本の旧国鉄時代と思われる電車車両。ドアは開けっぱなしで走ります。
行き先表示は なんと「快速岐阜行き」のままでした!
青い看板がある建物は校舎の一部です。

学校の授業風景

ホワイトオードの漢字は「漢字しりとりゲーム」です。
学校のスタッフと日本語教師の飲み会です。

ミャンマーは暑いです。停電も多く、クーラーが動かないと猛暑です。
ミャンマー奮闘記(2)をお楽しみに!!