DSC08600

講演:老後への備え                         

会員でケアマネージャの実績が豊富な「安藤芽久美さん」の介護保険などを含めた「老後の備え」に付いてのお話しをうかがいました、NPOロングステクラブの座談会(座長 峯尾さん)の様子です。

開催日 3月11日10時~12時 場所 浦和コミュニティセンター
投稿、編集 中村一彦

開会の挨拶をする座談会 座長の峯尾健一さん(左)と講師の安藤芽久美さん(右)
経験を基に真剣に講演を行う安藤芽久美さん!
熱心に耳を傾ける参加者

講演の後、身近な問題から色々の意見、質問が出ましたが、安藤講師は丁寧に答えて下さいました

手を上げて、真剣に質問する会員
質問に笑顔で答える安藤講師

講演においでになり、入会された方々

ベテランのケアマネージャー安藤芽久美さん、
企画、運営をされた、座長の峯尾健一さん、それに
真剣に聞き入り、具体的な質問もされていた参加者の皆様、
ありがとうございました!
私としても、真剣に老後を考えさせられました。
ありがとうございました。
今後共ご指導のほどよろしくおねがい致します。

企画運営、座長の峯尾健一さん、と、
講演者、ケアマネージャーの安藤芽久美さん
ありがとうございました!
DSC08600

ロングステイクラブ新年会2025

投稿 文、構成、写真:皮籠石成久、写真、HP編集:中村一彦

美味しかった朝夕バイキングの食事

2025年1月28日(火)~29日(水)
幹事 :宮下 弘さん、真渓佐智子さん
参加者:大野 康昭さん、田中 靖人さん
峯尾 健一さん、工藤 よしみさん
新井 新治さん、中村 一彦さん
江藤 智枝子さん、馬場信子さん
安藤 芽久美さん、会田静子さん
野田 篤憲さん、皮籠石 成久(旅のまとめ、編集)

往路 居住地から大宮駅・東京駅⇒熱海駅⇒宇佐美駅・伊東駅⇒伊東園ホテル松川館(泊)
ビンゴ大会、カラオケ大会、幹事部屋二次会
復路 東海館見学⇒ホテル送迎バスで伊東駅・伊東駅周辺散策⇒昼食(地元飯)解散⇒帰路

大宮を出発したら、早速、乾杯始まる。
グリーン車で、車窓の景色でも見ながらゆったりと・・・・・

大宮発組は宇佐美駅で下車、徒歩5~6分の、美味しい中華店「金華」で昼食(皮籠石さん紹介)

ビールで乾杯! 幸せ!
ラーメン定食美味しかったね!
ラーメン屋のお兄さんがパチリ

何杯目ですか?
中華料理「金華」の前で。

ロングステイクラブ新年会伊東の旅①
2025、1、28

夕食バイキング、乾杯
我々のテーブルは別室で

幹事部屋で、

カラオケルームで歌い放題!!

ビンゴ大会
第一位 皮籠石さん獲得 賞品はこれ➜➜➜➜➜➜ 
第二位 峯尾さん
第三位 新井さんでした。

ロングステイクラブ新年会伊東の旅②
2025.1.29

朝食の風景①
朝食の風景②
伊藤園ホテル 松川館で記念撮影

東海館
伊東温泉観光・文化施設
昭和3年に稲葉安太郎に
より創業。昭和13年
伊東線開通により湯治客
から団体客へ館内増改築。
平成9年閉館。現在は、
資料館、日帰り温泉等

伊東の別荘の庭でくつろぐ東郷平八郎元帥
大室山の大蛇穴 一碧湖の赤牛
魔除け「伊東どんどろ」

               東海会館最上階 「観望楼」にて

LSCお嬢さん方のとっておきのポーズ
男性も負けじと!(でも負けてる)
鹿児島の会員「吉永さん」寄贈の焼酎
皮籠石さんの絵手紙作品
東海館見学後に和風喫茶室でいただいた
わらび餅セット500円也
皮籠石さんの絵手紙作品 素晴らしい!
実に美味しそう・・・・写真より味がある。
帰途の伊東駅
電車時間までの、伊東駅周辺 堂々たる散策! 
昼食は「まるたか」で名物「うづわ定食」
前日、皮籠石さんが、見つけ予約。満員だったので予約正解
「まるたか」の店内雰囲気。
「うずわ定食」待っている
うずわ定食 (食べ方は下記参照ください)

沿線の火災で、電車到着が70分程度遅延
伊東の海を見ながらーさよなら、又来るね!

ロングステイクラブ新年会伊東の旅 感想録
▶宮下様、色々お世話になりました。いつの間にかいなくなってしまったのでお礼が言えませんでし た。あの後、寒いや 電車の遅れやでとんだ交通事情でしたね。寒くて風邪をひかないで皆さんお大事に。もう家に着かれましたか。私は、と ても気分転換になり楽しみました。皆さんありがとうございました。(幹事 マタ二)

▶宮下さん、新年会色々と企画して頂きありがとうございました。楽しい新年会でした。お疲れ様でした。(田中)

▶新年会無事終了お世話になりました。お疲れになったと思います。タイ旅行お気をつけて行って来て下さい。(大野)

▶お世話になりました。楽しい企画ありがとうございました。帰りに小田原でアンパンを土産に買いました。(峯尾)

▶往復自家用車で伊東まで行きました。新年会、大変楽しかったです。ご苦労様でした。(新井)

▶宮下さんお世話様でした。楽しい新年会ありがとうございました。今後とも宜しくお願いいたします。(中村)

▶宮下様、新年会楽しかったです。色々とお世話頂き、有難う御座いました。(馬場)

▶はい、良い旅でした。お世話になりました。(会田)

▶皮籠石さん、工藤さん、会田さんの前日事前調査で見つけていただいたお店【ひもの 鯵屋】で買った鯖のみりん干しを食しました。むちゃくちゃ美味しかった(爆)皆様、楽しい旅を有難うございました。(野田)

▶みんな楽しそうで美味しいものたくさん食べて羨ましいです。私は犬のため泣く泣く帰りました。皆さん有難うござい ました。楽しい時を企画して頂き幹事さん有難うございました。(安藤)

▶話しに花が咲き、美味しい物を食べ、温泉に入り、ゆったりした旅に満足です。鈍行列車も良いものですね。(工藤)

▶伊東の旅では、皆様に大変お世話になり有難うございました。今後も宜しくお願い申し上げます。(江藤)

 ▶旅は、美味しい物を探して食べる事。インターネットで情報を得ることと地元の人に評判を聞くことが大切だと思いま す。野田さんが干物の味が最高との評価、案内人としては嬉しい限りです。東海館での伊東市にゆかりのある三浦按針や 軍人、文豪達の歴史やつながりを垣間見れたことができました。午後の電車のアクシデントなど筋書きの無いドラマもあ りましたが、「心温まる小さな伊東の旅」でした。幹事の宮下さん、真渓さんにお礼申し上げます。(皮籠石)

                  

                      完

DSC08600

マルタの風に吹かれて

投稿(文、写真) 小島裕子  HP編集 中村一彦
                -– マルタ・ソロ プチ滞在記 —

 数年前、マルタで語学短期留学をした友人から「マルタは風景が美しく穏やかな国、一度訪れてみてね」と言われ、いつか行ってみたいと思いつつそのままになっていました。2024年の夏の終わり頃、書店で「マルタ騎士団」という本に目が留まり、読み終わった時には(マルタに行ってみたい。マルタ騎士団の足跡を辿ってみたい)と感じ、「いざマルタ!」。予定を遣り繰りし、すぐに航空券とホテル3週間分を予約し、1ヶ月後にはマルタの地を踏みました。私の旅はいつも「取り敢えずその場所に身を置く」というもので、今回もあまり予備知識も無いままマルタに向かいました。 

 ーこの本に誘われましたー

〖マルタ共和国〗

マルタ共和国はイタリアの南、地中海に浮かぶ小さな島で主都のあるマルタ島とゴゾ島、コミノ島の主な3つの島から成り立っています。マルタ島の海岸沿いの入り組んだ入り江は絵のような美しい港の景観を創り出しています。

マルタの歴史は古く、シチリア島の人々が渡来した紀元前5000年頃に遡ります。紀元前1000年頃からは地中海沿岸の国々からの攻撃と支配の歴史が繰り返されました。マルタ騎士団が活躍したのは16~17世紀。最後はイギリスの統治下に置かれ、1964年、マルタ共和国としてイギリスから独立しました。マルタの公用語は英語とマルタ語です。

マルタ共和国地図 マルタの位置 

マルタはヨーロッパの人たちが夏のバカンスを過ごしに来るビーチリゾートとして有名で、私が滞在していた10月もほとんどの観光客はヨーロッパの人たちのようでした。

〖滞在先・スリーマ〗

私の滞在先はマルタ島の東に位置するSliema(スリーマ)という街で、借りたキッチン付ホテルは海岸沿いのにぎやかな観光地からちょっと坂を上がった静かな住宅街の一角にあり、買い物や移動にとても便利な場所でした。

スリーマはボートや船で島めぐりをする観光拠点で、毎日ここから沢山の観光船や観光ボートが出ていました。朝夕の港の風景はとても美しく、海岸沿いに長く続く歩道は人々の散歩道。私も夕暮れの美しい風景を眺めながら散歩を楽しみました。

〖首都・バレッタ〗

スリーマの対岸に首都バレッタの街があり、堅牢な石壁で囲まれた美しい城塞都市バレッタの外観を見ることが出来ます。スリーマ、バレッタ間はバスだと約30分、船では10分ほどです。

スリーマから見たバレッタの外観
バレッタ・聖ヨハネ大聖堂
観光客で賑わうバレッタの街
段差が低い階段

バレッタの「マルタ騎士団長の館」を訪れました。一階が主に兵舎、二階が会議室や執務室として使われていたそうですが、現在公開されているのは二階のいくつかの部屋とネプチューンの中庭を囲む廊下と兵器庫です。宮殿の廊下は大理石で出来た床の細工や壁や天井のフレスコ画が素晴らしく、(ここを騎士たちが行き来していたのね)と感慨に耽り、中世ヨーロッパにタイムスリップしたかのような気分になりました。

マルタ騎士団長の館の美しい廊下
マルタ騎士団の兵器展示館)
 

〖古都・イムディーナ〗

 イムディーナはマルタ最古の都市でバレッタが築かれる前のマルタの首都でした。首都の移転と共に人々が去り、その後は「静寂の街」と呼ばれています。街を訪ねてみると正にその通りで、一歩路地に入るとひっそり静まりかえり、中世の街に紛れ込んだかのようでした。貴族が多く住んでいたこの街の外側にはラバトと呼ばれるエリアがあり、お土産屋さんやレストランが軒を並べ、活気あふれる庶民的な雰囲気が楽しめます。日本の城下町のようなものでしょうか。

イムディーナの入り口の門
イムディーナ 静寂の路地

〖マルタでの日々〗

 スケジュールは気の向くままで、ガイドブックや地図を眺めながら「明日はここに行ってみよう」、「このレストランは美味しそう」、「このツアーに参加しようかな」といった具合でした。ホテルのスタッフや街で知り合った人などからお勧めの場所やレストランを教えてもらうこともありました。気に入った場所を再訪出来るのは長期滞在のメリットですね。

 ☆移動手段

空港からアパートまでのタクシーの運転手の運転の荒いこと!カーブや細い道でもビュンビュン飛ばし、まるでカーチェイス状態。最初は驚いたものの、その後バスやタクシーに乗るたびにビュンビュンが続いたので何日かするとすっかり慣れました。日本にはこんなバスやタクシーの運転手はいないだろうなと思いつつも、郷に入りては郷に従え、です。

 マルタには鉄道が存在せず、観光客の主な移動手段はバスとタクシーです。バスの利用にはバスカードがあり、とても割安で乗る都度買う必要がなく便利に使えます。バスの便が悪い場所に行くときは「Bolt」というタクシーの配車アプリをよく利用しました。方向音痴の私には欠かせないアプリです。

まだこんなレトロなバスも現役
お世話になったアプリ配車タクシー「bolt」

☆食事情

 パスティッツイはマルタの伝統スナック。手のひらサイズのパイで、パイ生地の中身はリコッタチーズかヒヨコ豆のペーストが一般的のようです。マルタの人は朝ご飯にこれを食べる人が多いそうです。街のあちらこちらにパスティッツィの専門店がありました。また、ジェラートのお店もそこかしこにあり、イタリアが近いからかピザやパスタのお店も多く見られました。

 マルタのビールは黄色い缶の「チスク」が有名です(瓶もあります)。マルタの気候に合う飲みやすいライトなビールで、ランチのお供に良く飲んでいました。

 観光地ということもありレストランは数多く、ランチやディナータイムはどこのお店もにぎわっていました。私は、なるべく地元の人お勧めのレストランに足を運ぶようにしましたが、どこも大正解!でした。島国ということで海鮮料理をよく注文しました。店頭に魚のショーケースがあり、そこから自分で選んだ魚を自分の好みに調理してくれるレストランもありました。

パスティッツイ
生ガキ&フィッシュスープ

☆マルタでの小さな旅

ワイナリー見学もしたいと思っていたので近所のワイン屋さんのご主人にお勧めのワイナリーを尋ねると「マルタの人たちが愛する家族経営のワイナリーだよ」と”Meridiana Wine Estate”を紹介してくれました。

当日の参加者は15人程。殆どがヨーロッパの人たちで、中には大学でワイン醸造を学んでいるというポルトガルからの学生もいました。

ワイナリーの歴史やブドウ畑の様子、醸造過程などの説明後、お待ちかねのテイスティング。沢山のおつまみ付きで4種類のワインをテイスティングしましたが、白ワインが一番印象に残りました。マルタの気候風土には白ワインが似合うような気がします。

ワイナリーMeridiana Wine Estate
 ワインテイスティング

マルタ島の北に位置するゴゾ島は、マルタ島の北の端からフェリーで30分ほど。距離は近いのですがマルタ島とは異なり自然豊かでのんびりした牧歌的な雰囲気の島です。行きのフェリーで知り合ったマケドニアのご夫婦と二人のスウェーデン人女性たちと意気投合し、ゴゾ島のカフェでビールを飲みながらお喋りをするという楽しい時間もありました。

フェリーでゴゾ島へ

ゴゾ島の入り口 シュレンデイ湾

また、現地で見つけたグルメツアーにも参加。10名ほどの観光客が集まり首都バレッタの地元民お勧めのカフェやレストランを巡り歩きました。青い空の下、青く穏やかな地中海での遊覧船の小さな島巡りも楽しいものでした。

☆近所のひとたち

ホテルの近所に馴染のカフェが出来ました。ランチで初めてそのお店に入った時、カフェのご主人は「日本人がこの店に来たのは初めてだよ」と言い、二度目に行った時は「今日のマキアートは僕の奢り」と。お客さんが少ない時はマルタの話をあれこれ聞かせてくれました。

近所の小さな雑貨屋のおじさん、郵便局のおねえさん、シーフードレストランの優しいご主人やウェイター、ワインショップの物知りご主人等々、いろんな人たちとのお喋りも楽しかったです。マルタの人たちはお喋り好きの人が多いようで、それが幸いしたようです。

旅でいつも感じるのは時間の流れです。最初はゆっくり過ぎ、徐々に速度を増すように感じます。3週間のマルタ滞在も終わってみればあっという間の楽しい日々でした。

DSC08600

宇宙葬(ロケット打ち上げを見届けに)2024年12月

投稿(文・写真)小島裕子  HP編集 中村一彦

友人から「父は宇宙に興味があり、生前、『宇宙から地球を眺めてみたい』とよく言っていたので遺灰の一部をロケットに載せて打ち上げる宇宙葬をしてあげることにしたの」と聞き、「その時は私も一緒に見届けたいな」と応え、それから約一年。

当初、打ち上げは2024年10月でしたが延期が重なり、「この分だと来年(2025年)になりそうだな」と思っていた矢先の12月10日、宇宙葬の企画会社から「打ち上げが12月20日に決まりました」と連絡が。「えっ、10日後じゃない!」。18日の夜便で発ち25日の朝帰国というスケジュール。急な決定でしたが友人も私も打ち上げを見届けたかったので、友人は会社に休暇願を出し、私はスケジュールを調整しすぐにESTAを申請しました。

 ホテルと航空券の予約は宇宙葬の企画会社が手配し、18日の夕刻に企画会社のスタッフ4名と羽田空港で合流し合計6名でロサンゼルスに飛びました。

 ロサンゼルスまでの飛行は9時間弱。18日の13時40分頃空港着。ここまでは順調でしたが、入国審査の長い列で1時間半待ち、そして企画会社のメンバーのKさんが何故か入国審査でひっかかり別室送りになってしまい、私たち5名は彼女が解放されるまで空港で足止め。別室ではスマホ禁止(ということ)で連絡が取れず、ひたすらKさんが現れるのを待ちました。

アメリカは、特にロサンゼルス空港は入国審査が厳しいらしく、入国審査を待つ間、何人もの人たちが別室送りになる様子を見て驚きました。そして3時間以上が過ぎ、ようやくKさんが姿を見せました。

 ロス空港 Lakersのオブジェ 
空港でジュースとサンドイッチ 計3162円!

空港での時間ロスが影響し、空港から高速バスとタクシーで移動しLompocのホテルに着いたのは午後11時。予定では午後7時には着いていたはずでした。

まぁ、旅にハプニングは付きものですね。

ホテルではドバイで仕事をしている1人の若者とタイで仕事をしている4人の若者が私たちと合流しました。彼らはIT関連、アニメ関連会社の経営者たちで、私の友人同様ロケットに何かを搭載依頼し、今回の打ち上げを見届けに来たということでした。

今回の打ち上げ場所はVandenberg Space Force Base(バンデンバーグ空軍基地)でしたので、私たちは基地から車で15分くらいの街のホテルに滞在しました。そこで2泊の予定が、打ち上げが1日延期となり、3泊することになりました。(ロケット打ち上げにはこのような変更はよくあるそうです)

二日目は、企画会社のスタッフや合流した若者たちと空軍基地のあたりの様子を見に行こうと総勢10名でタクシーに分乗し出かけました。空軍基地の周囲は建物など何もなく、広いブロッコリー畑が私たちを迎えてくれました。確かに空軍基地の周りに建物は建てられませんね。カリフォルニアの空の広さと青さ、そしてさわやかな風を満喫しました。

   ホテルのロビーにロケットのオブジェと
美しいクリスマスツリー

カルフォルニアの青い空
         気持ちよさそう・・・・

     

打ち上げが行われる空軍基地  
基地近くの広大なブロッコリー畑

打ち上げの延期で3日目がフリーになったので、運営会社のKさんがMaveric社(ロケットのエンジン制作会社)のCEOとCOOとのランチを設定してくれ、現地で合流した若者たちも参加。Maveric社のお二人から宇宙事業のことやロケット打ち上げに関することなどあれこれお聞きし、楽しい時間となりました。とてもフレンドリーな方たちで、私たちの幼稚な質問にも分かりやすく答えてくれたことが印象的でした。

Maveric社のCEO、COOと 
 ランチを終えて

ランチの後、友人と私はワイナリーを訪れることに。Lompocの近郊にはたくさんのワイナリーがあるので、ホテルのスタッフお勧めの「Babcock Winery」に、企画会社の男性スタッフ一人を加え3人で出かけました。

ワイナリーではまず4種類のワインをテイスティングし、その後、気に入ったワインを楽しみました。丘の上にある素朴な雰囲気のワイナリーで、さわやかな風を感じながらの素敵な時間でした。

(Lompoc近郊にはワイナリーが沢山)

(Lompoc近郊にはワイナリーが沢山)    (丘の上のBabcock Wineryでテイスティング)

場所からの打ち上げ見学でした。打ち上げ数分前からモニターでロケットの詳細を見ることが出来、その後もリアルタイムでYouTube発信していました。見学場所にはLompocの街の人たちも大勢見学に来ていて、夜空を一瞬昼に変えるようなまばゆい光、そして打ち上げの瞬間「ウォー」「ブラボー」という歓声と拍手に包まれました。夜中で空が曇っていたため宇宙に向かうロケットの形自体は見えませんでしたがロケットのエンジン炎が上昇してゆく様子に興奮しました。「父の遺灰が宇宙に飛んでいく・・」と友人も上昇する炎をジッと見つめていました。炎はどんどん上昇し炎の塊は光の点となり消えていきました。

8分後、上空で分離したロケットの胴体部分が地上に戻ってきます。再利用するためだそうです。炎が徐々に下降してくる様子が見えました。それが着陸した時の音は遠くにいる私たちの耳にも大爆音で、「着陸失敗で爆発した!?」と思ったほどでした。

発射の瞬間 by SpaceX
昼間のような明るさに

            無事上空に。視界から消えるまで眺めていました

人工衛星に搭載された遺灰は一年程地球の周りを周回し、やがて大気圏に突入して燃え尽き流れ星になる・・・、そうです。

今回の打ち上げミッション名は「Bandwagon-2」、ロケットはイーロン・マスク率いるSpace X社のFalcon9。

ロケット打ち上げを初めて眺めながら様々なことを思いました。先ずはこのような経験をさせてくれた友人と亡きお父様に感謝。そしてし、人の弔い方には先祖代々のお墓の中、樹木葬、海洋散骨等様々な形があるけれど、亡くなった人を想い空を見上げ、星に語りかける、逆もまたありで、自分自身も地球に何も痕跡を残さず、ただ星になって大切な人たちを見守る、そんな宇宙葬という形もいいなあと感じました。

その後、タクシーと高速バスを乗り継ぎロサンゼルスに。

その日のランチはSpaceX社に隣接するカフェで、SpaceX社の上層部の方とご一緒しました。その方は日本人で、イーロン・マスクの信頼を得ている直属の部下だと聞いていました。ランチを取りながらSpaceX社について、イーロン・マスクの野望、宇宙産業に関するお話、等々、とても興味深いお話を伺いました。

  Rocket st.
SpaceX社のKさんと)

ちょうどクリスマスシーズンでしたのでクリスマスの雰囲気を楽しもうと、ロサンゼルスの大きなショッピングモール「ザ・グローブ」に行きました。モール全体がひとつの小さな街のようで、街の中心に大きなクリスマスツリーが置かれ店々はクリスマスデコレーションで飾られ、歩くだけでも楽しい時間が過ごせました。モールの中にある有名なメキシコ料理のお店でディナーを楽しみ、長い一日が過ぎてゆきました。

翌日はグリフィス天文台に。アールデコ調の趣ある建物自体も美しく、数々のハリウッド映画のロケ地としても有名です。ここの展望台からはロスの街が一望でき、ハリウッドサインも見ることが出来ます。ロケット打ち上げを見たばかりだったこともあり、宇宙や化学関連の展示をじっくり見学し、更に宇宙に興味が湧き、宇宙をより近くに感じられる場所でした。帰り際に振り返って見た夕暮れの天文台もライトアップされ美しかったです。

ザ・グローヴのメキシコ料理店
グリフィス天文台

ホテルに戻りダイニングで夕食を取った後、ホテルのシャトルバスで空港に。

いつもの私ののんびり旅とは違い、短い期間にあちらこちらを動き回った盛りだくさんの旅でした。(今頃、お父様は宇宙から地球を眺めていらっしゃるんだなぁ)などと思いながら飛行機に乗り込み、帰国の途につきました。

                   ー完ー

DSC08600

Silicon Valley から日本を斜めに見る

講演・投稿 馬場信子、大野康昭、 司会・写真、大野康昭、 動画 米田健二、 HP編集 中村一彦

2024年11月座談会において、米国50年の滞在体験を有する会員の馬場信子さんにサンフランシス コ、シリコンバレー勤務時代のお話をお願いいたしました。(2024年11月19日、さいたま市市民サポートセンター)

シリコンバレー(Silicon Valley)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州の南部に位置する地域で、サンフランシスコ湾の南端に広がっています。この地域は、特にテクノロジー業界において世界的に有名で、多くの主要なテクノロジー企業やスタートアップが集まっています。

シリコンバレーの中心となる都市は、サンノゼ、パロアルト、マウンテンビュー、クパチーノなどで、ここにある企業には、Google、Apple、Facebook(Meta)、Teslaなど、業界をリードする企業が多数あります。この地域は、革新とテクノロジー開発の中心地として知られています。

講演された、馬場信子さんは「パルアウト」(赤丸)が 勤務地、在住地でした。

プレゼンもアメリカンスタイルで、参加者全員にネームプレートを付けていただき、二人 ずペアを組んで、話が一段落した後で時間を区切ってペアでそれぞれ意見を述べ合って話 の中身を進化させていくスタイルをとりました。

熱心に聞き入るLSC会員
COCOこと馬場信子さんの話しぶり、自己紹介(一部)
動画になってますので▶マークをクリックしてご覧下さい!

1)講師は, 英語セクレタリーとして米国企業GE、GE(ゼネラル・エレクトリック)原子力部門に勤務。                  後、石油会社、シェ ブロンの会社員と結婚。(*夫は、シェブロン日本支社の代表として、長年日本に在 住し、石油タンカーの建造のプロジェクトを担う。任務完了後、本社所在のサンフラ ンシスコに帰還する。)

2) 補足いたします。(*アメリカに移転後、大学のコースで、初期のプログラミングを 学びましたので、シリコンバレーでIT関連の仕事のオファーがあった。)

 3)*「シリコンバレー」は、サンフランシスコ南部にある有名校、スタンフォード大学 の研究所から始まったコンピューター会社、HP社から端を発す。
HP社(Hewlett-Packard Company)

かつて果樹園一面の 広大エリアに沢山の会社が創立され、発展した。HPやZerox社が、最初の会社。そし て、Apple社などが後に続く。現在は、Google, Facebook, Adobe, Oracle, などなど世 界を席巻するIT企業が点在する。 Google, Facebook, などの世界的な企業が点在する。IT関連の企業が集まる。

4)サンフランシスコ湾沿岸では、アジア人の割合は、全人口の35%程と、非常に多 い。

5)「GEEK」日本語ひとことでいえば、「おたく」と言うこと。コンピュターに特化し た天才達です。IT GEEK,簡単に言い表すと、コンピュータ・オタクの集まりです。コ ンピューター・サイエンス、IT技術者、科学専門家達が、世界中から集まりますし、 引き抜かれてくる。

 6)採用は、コンピュターに特化した人事会社からや、IT技術者の引き抜きが多い。アメ リカの社会では、差別を無くす意図から、履歴書に年齢と性別は書かない。勿論、学歴、専攻、専門分野の職歴などは、記載する。

7)「quota」割り当て、は、マイノリティーの黒人などを会社や学校に優先的に一定数い れる制度。アジア人は対象外。

8)このIT業界での就職活動において、会社との具体的な面接まで漕ぎつくのは、はなか なか大変。一つのポジションに、数千人の応募があるときもある。全国から希望者が やってくる。そんな背景から、面接までいけば多少希望がある。

9)人材会社は、Resume=レヅメ=履歴書と共に、reference(推薦人)2名が必要。身元確認のため。

10) 職場では、自分のタスクをしっかりやり切ることは、勿論、チームワーク成果を出さ なくてはなら    ないので、チームワークで働くことが求められる。それゆえ、職場=共有の“場”=への適応性が求められる。独りの独占的な能力でこなせる仕事、職環境で はない。

11) 採用に当たっては、Job.Description=仕事の内容、範囲、それについての対価=報酬 を、雇用者側と、話合った上での合意で決まる。入社後は、数カ月間に一回、(期間 は、会社による。)上司との話し合い(Review)が行われる。

12) 会社の人事部自体を、アウトソーシングを行っているところもある。プロの人事会社 である。

13)USAでは、1990年代でIT産業において全米エンジニアのうち30%は女性と言わ れていた。

14) 現在では、クオーター制は、止めたほうが良いのではないかとの意見がある。実際、 中止している会社が多々ある。能力と同一賃金との関係で、職場の不公正があり、 ちゃんと一生懸命働いている社員に悪影響を及ぼしているからである。

ここでペアそれぞれが一人2分間のタイムで問題点を討議(Pair-Share) これまで聞い て、各自の意見、感想を発言し合う。

アメリカ社会  ボランティアやNPOの活動が盛ん

 1) 妻―夫の求められる役割

2)パーティーなどは盛んに開かれるが、その場合男性の役割、女性の役割がはっきりし ている

3) 日本語と英語、 会話のスピードは日本語の4倍の速さである。Google社のトップレ ベルのエンジニアは、普通のエンジニアの10万倍の能力があるといわれている。人 間の能力は、測り方がわからない。特に、幼い子供たち、若い子供たちに接するとき は、言語に十分気をつけているべし。4.―日本が生き残るすべ

ー ここで再び一人5分間でpair で討論して理解を深化させる
座談会を終えて、翌日の会員のグループラインでの参加者の感想

1)非常に面白い興味の持てる話でした。エンジニアを採用する仕事に関わったことがあ る。  仕事の仕方もITエンジニアと一般の人では全く異なる。人事部のアウトソーシングの話  

2)目からウロコの話しもたくさんあった。職場で大事なことはチームワーク、ディベイト を 通してしてチームとして成果を上げていく。家庭で大事なことは役割をきちんとこなす こと(会員Oさん)

3)座談会すごくよかったです。人種の差別、不平等は永遠のテーマです。(会員Mさ ん)

4)講師―日本では当たり前の学歴、どこの有名大学等はシリコンバレーでは通用しない   その中でビルーゲイツやスティーブ.ジョブズが生まれたー その通りだと思う。その 子の持つ能力を認め、のびのびとした環境で伸ばすべき(会員Mさん)

                      完

DSC08600

2024年新蕎麦試食会

投稿 田中靖人 HP編集 中村一彦
新そば試食会幹事 大野康昭 田中靖人

今年も新蕎麦試食会を、10月10日上落合コミュニティセンターの調理室を借りて行いました。男性4名、女性5名の参加でした。蕎麦打ち会の柏倉さんが、朝一番で打った新蕎麦とザル等の道具も持参してくれました。柏倉さん指導のもとに鍋の沸騰したお湯で温めて水、氷で冷やしてザルに盛り付け、天ぷらを添えて蕎麦つゆで食べました。北海道産のほろかないという新蕎麦で大変美味しいかったです。蕎麦を食べながらのお話し、準備作業、皿洗い等の後片付け等の共同作業で、皆さんの懇親を深める事が出来ました。今回は少人数でしたが、来年はもっと多くの方に参加頂ければと思います。

蕎麦の湯で上がりを待ちながら、蕎麦つゆ、天ぷらの準備
出来上がったので、順番にさあ食べよう
柏倉さんの説明、指導
試食中、美味しそう
試食中、美味しそう

お腹いっぱい、かたずけも終わったので皆んなで記念写真(1)
田中さんはこの写真撮影の為に、写真に入ってません。

新そば試食会幹事 大野康昭さん、田中靖人さんご苦労様でした。
柏倉さん,何時もありがとうございます。
また、来年が楽しみですね!!

DSC08600

ミャンマー日本語学校 滞在報告

投稿 谷口良雄 HP編集 中村一彦

2022年末、LSCの中村さんから 「知り合いがミャンマーの日本語学校の日本語教師をさがしているが、どう?」と話があった。ミャンマーは、国内が紛争中でもあったが、中国で長年日本語を教えていた経験もあり、外国人の日本語教育に興味があったことから受けることにしました。

日本語学校はミャンマーの主都ネーピードの南約1800Kmにあるミャンマーの最大都市ヤンゴンにある。年中 気温が37度から40度前後の常夏です。

ヤンゴンでは、雨季にはたびたびスコールの激しい雨音のため、ときどき授業が中断させられることがあります。それは、話が聞こえなくなるからです。
また乾季でも、時にはいきなり雨が降りだすこともあります。
そんな時に学生は「あっ 雨だ!先生 失礼します!」と言いながらクラスの半数近くが教室を飛び出す。外に干してある洗濯物を取り込むためです。

ここでは、そんな日常の学校での様子を中心にお話し致します!

ミャンマーの寺院が東松山にあると聞いたので参考にと、赴任前に見に行った。

東松山市にあるミャンマーの寺院

ヤンゴンについた日の夕方、社長(日本語学校の経営者)夫妻と食事

ミャンマーの海鮮料理

ミャンマーの国民食といわれる“ムヒンガ-”

ミャンマーでは一般的な
カレンダー

サッカーと同じように人気がある ミャンマーの「蹴鞠けまり」
チンロン。

与えられた私の部屋。

学生寮は二階にあり、この部屋は一階。壁の隣は教室。家具はベッドと本棚だけ。カーテンは両端まで届かない短さ。机がなかったので隣の教室から勝手に部屋に持ち込んだ。椅子も。エアコンも無かったので、頼んで入れてもらった。入るまでの一週間は40度前後の暑さに耐えなければならなかった。しかし、停電が毎日8~10時間あるのでエアコンは止まる。

事務所は発電機があるのでエアコンは大丈夫だが・・・・。

3月 4月 5月は一年で最高に暑い時期。そのため外で寝る生徒があちらこちらに。

まるで避難民のようにみえた。

水浴、洗濯はここでする。ミャンマー人は人前で素っ裸になる習慣はないのでパンツかショートパンツ、またはロンジン(巻きスカート)を身に着ける。

女性はロンジン付をけている。

夕食後、ギターを弾きながら歌いくつろぐ生徒。ギターが弾ける生徒は結構多い。

ミャンマー到着後初めての日曜日、ヤンゴン最大の寺院‘’シュエダゴンパゴダ。

辛い料理が多い中で、比較的に合った麺料理。

レストランのメニュー、右側は料金。数字で表すレストランもあるが・・・

日本語学校はこのような住宅地に囲まれている。

高級住宅街の隣を流れている川の対岸には、このような平屋の住宅街が。電気や上下水道は引かれていない

パンをコーヒの中に浸して食べるのが普通らしい

ヤンゴン最大のカソリック教会、セントメリー教会。クリスチャンの学生に何回か連れて行ってもらったが、ミャンマー語なのでさっぱりわからず、賛美歌だけは

電光表示のアルファベットで何とか読めた。

この教会はイギリス人が宣教に来て建てた、歴史ある建物。なお、ミャンマーのキリスト教人口はおよそ7%といわれている(日本は約1%)

会堂の内部。装飾が素晴らしい。なお、教会に集う年齢層で日本と違うのは、比較的に若い層が目立つことだ。

ヤンゴン市内のカントジー湖に浮かぶレストラン兼ホテル。

ヤンゴン市内の環状線、東京の山の手線と同じくらいの距離を一周3時間かけて走る。ただし、一周するダイヤは1にちに1本だけ。 他は途中止まりのダイヤ編成。

ドアーも窓も開けたまま走る。時速20㎞なので危険ではない?地元の人の話では「いつでも乗れて、いつでも降りられるように」とか。

なお、この電車の行先表示は「快速 岐阜行き」だった。

駅のホームで遊んでいた少年と。 ベンチに座っていた時、少年のひとりが私の前にやってきて、突然ひざまついて両手と額を地面につけて3度拝むようなことをした。そして 素早く立ち去った。私は驚いて 生徒に

いったい どうしたの?」と尋ねたところ、「あの子は お年寄りに対する尊敬の気持ちを表したんです」と答えた。

日本語教師だけのlunch meeting。私が提案し、学校近くのレストランで月一回、定例のコミュニケーションを持つようにした。

レストランでの鍋料理、人数が多いとき このような鍋をとることが多い

日本語学校を修了して、いよいよ日本に向けて出発する日に学校前でお別れの記念撮影。

12月23日、24日は学校周辺の家々を訪れ、クリスマスの歌を唄って祝った。

昼間は37度~40度、夜になっても32度前後で、「これはたまらん」と、寮の前にある砂で埋まった子ども用プールを改良して遊んだ。

全身を水に浸したのは何年振りか。気持ちがいい!

日本に行くことが決まっての送別会・解散会。

四月は水祭り(ティンジャン)の行事。いくつかの少数民族の踊りが披露された。

軍事クーデター以後は、「軍事政権が設置する水祭り会場(市内数カ所)には参加しないで、自宅前の路上で水をかけ合った市民が多い、という」

水をかける人も かけられる人もワイワイ、キャーキャーと とっても賑やか。

水かけ祭りは二日間続く。

生徒四人と教師一人と一緒にヤンゴン市内のチャイナタウンで食事。

日本に旅立つ生徒を見送りに来た僧侶、・・・青年は日本語学校修了後に、頭髪を短くしてお寺に籠った(ヤンゴンンゴン国際空港で)

彼(後列左から三人目)の家族と親戚。

彼の両端が両親、前列左から二人目は妹、前列右端は弟。

こうして空港まで見送りに来る家族はとても少ない。

多くの生徒の故郷はヤンゴン市以外の郊外や田舎。

内戦が激しくなっているために、道路が寸断されていたり、国軍が通行止めにしているので路線バスは運航中止していることが多い。

母親は涙を流しながら息子と別れを惜しむ。

街を歩いていると、消防署に “JAPAN”と記された消防車を見かけた。反対側には日の丸とミャンマーの国旗が描かれていた。

ヤンゴン市内の観光名所の一つ。シュエダゴン パコダの前で。

ヤンゴン市内の目抜き通り。

生徒が持っているバイクに乗せてもらって、スーパーへ買い物に。

教室の様子。

校庭で全校集会、社長兼校長は授業中でも お構いなく「今すぐ 全員集合せよ」と招集をかける。

大して急ぎの内容でもないのに・・・・・。その心理が理解出来ない・・・・。

ミャンマーの常識は 日本の非常識?

クラスの解散式*卒業式

教室ではミャンマー料理を作ってみんなでお別れの食事。

卒業の日に床に座って祈り、そして両手と額を床につけて感謝の気持ちを表すのがミャンマーの習慣、文化。

7月7日の七夕飾り、教師の一人が自宅の庭から持ってきた竹に皆で願い事を書いた。

願い事は意味不明なものもあったが、「無事に日本へいけますように」とか、「戦争が早く終わりますように」等が書かれている。

学校の隣を流れる川、砂利運搬船が一日中通過する。

夜になると川べりの公園に集まって、食べたり飲んだり、歌ったりする。

受業の合間に気分転換の意味で、ダンスをした。チョットだけのつもりが90分間を使ってしまった、なんてことも。

生徒を連れてヤンゴン市内の高層ビルの中にある「ヤンゴン日本人会」を訪れた。

これも気分転換の一環(のうもり)で・・・・「横並び一斉じゃんけんゲーム」

ゲームのようで、そうじゃない。

土曜日の夜の
「日本語コーナー」

「終わりに&追記」谷口良雄

道路は川のようになり、水が膝近くまである道を歩いてスーパーなどに行かざるを得ません。
革靴やスニーカーなどを履いている人はまずいません。私も地元の人と同じようにサンダルばきで、時にはショートパンツで外出します。

教室にはエアコンがないので常に窓を開けています。
大きな雨音で、この時も授業が中断されます。教師や生徒の話が聞こえなくなるからです。また、乾季の季節でもしばしば いきなり雨が降り出し、「あっ!雨だ!先生失礼します!」と言って、半数ほどの生徒が急いで教室を飛び出します。
外に干してある洗濯物を取込みに行くためです。

何が起きるか予測がつかないことが多いのですが、みんな優しく明るく、そして素直な人が多いです。
3食とも学校の食堂で生徒と一緒に食事をしますが、その時は出来るだけ個人的な質問などをして、一人一人の背景を聞き出します。言語上のギャップで詳しく知ることは難しい面もあります。
特に政治的な話題はこちらから切り出さないと話してくれません。でも、決して言いたくないのではなく、そこまでの日本語力がないためであり、聞けば大抵答えてくれます。故郷や家庭の様子を尋ねると「私の家は国軍に放火された。村の大半は壊された。家族や村人は山や森、あるいはお寺に避難した」という話は何人もから聞くことが出来ました。中には「私の兄は国軍と戦って殺された」とか「友だちの何人かは少数民族武装軍に入っていて国軍と戦っている」と話す人もいました。さらに「故郷に帰ることが出来なくなった。道路は封鎖され、電話回線やインターネットが遮断されている。家族が無事にいるのか、家が壊されずに今でもあるのか、もわからない」という生徒もかなりいました。


ミャンマー全土の半数は、インターネットや電話回線が遮断されているとのニュースがあります。卒業したが故郷に帰れなくなって、そのまま学校に泊まり込んでいる生徒は数十人に上りま「内戦の避難民」ともいう人たちです。
軍事クーデターから23年9月で既に3年半、各地の戦闘は収まるどこ.ろか、ますます全土に拡がりつつあります。24年9月10日、民主派NUG(国民統一政府)の大統領代行が演説しました。「我々は最後には必ず勝利する」と。今、世界の各地で戦争や紛争が起きていて、ミャンマー情勢はほとんど報道されなくなりました。国内外の避難民は300万人以上とも言われ、国連によるとミャンマー国民の半数は極貧状態にあると発表されています。


一時期は「アジア最後のフロンティア」言われ、外国から(日本からも)多くの企業が進出して来ました。しかし、軍事クーデター以降は引き揚げる企業が続出して経済は著しく失速しました。欧米からの経済制裁でも大きな打撃を受けています。その上、ミャンマー軍は最近、軍事費を大幅に増やしました。今、多くのミャンマーの若者が日本に働きに来ています。内戦で家が壊され、家族と連絡を断たれた人も多いはずです。

日本で、ご近所で、ミャンマーの若者(特に)見かけたら、ぜひ ひとこと声をかけてあげてください。母国の言葉を耳にすると、きっと心が和むことでしょう。嬉しい気持ちになるかも知れません。仕事以外で一般の市民と接する機会はほとんどない、とよく耳にしますから。(「こんにちわ!」は「ミンガラバ」と言います。
                                           以上

DSC08600

「ニューサンピア埼玉おごせ」でのソロキャンプ

投稿 米田健二 HP編集 中村一彦

夏と言えば、キャンプ。家族や仲間と過ごすものと思っていたが、コロナで外出が制限される中、ソロキャンプが急増。コロナが終息した今もソロキャンプは多い。
今シーズンの発キャンプは総合レジャー施設「ニューサンピア埼玉おごせ」レジャー施設の敷地にソロキャンプ専用のキャンプ場を発見。施設内の温泉も利用可能との触れ込み。ホテルの受付でチェックイン。キャンプに来てホテルでチェックインとは、なんとも興ざめである。

70段の階段を上る

キャンプ場専用の駐車場に車を止め、そこからキャンプ場まで山中の階段を70段。息を切らせながら5往復して、荷物を運んだ。テントを設営して、木にハンモックを掛ける。レジャー施設の裏手ではあるが、喧噪は聞こえない。木々がこすれあう音、虫の音、鳥の声。何もしない。ただハンモックに横になり、ハンモックを揺らすための紐をリズミカルに引っ張るだけ。このキャンプ場は、市街地に近く行きやすい。山奥まで行かなくても、自然は楽しめる。

しかし、70段の階段はキツイ。建物であれば5階ぐらいの高さはあると思う。トイレも階段の下。

2回目は定峰清流キャンプ場

よく整備された、今風のキャンプ場。常設のグランピング用のテントやバーなどの施設も充実。シャワーなども利用可能。トイレもとてもきれいで、温水洗浄便座付き。グランピング施設を横目に、林間サイトに入る。30組ぐらいいるが、約半数はソロキャンプ。清流と言う名前の通り、キャンプ場内に川がある。受け付け時に「水辺では蛍も見られますよ」と聞いた。いつものように、テントを設営して、ハンモックをつるす。
ハンモックを渡す適当な木がなく、何度もやり直す事になった。

定峰清流キャンプ場

3回目は上野村の野栗キャンプ場

ここは最もお気に入りのキャンプ場、3年連続できている。1年目はコロナの真っ只中。キャンプ場まで来たが閉鎖。2年目は去年。トイレと水場だけはあるが、他には何もない。キャンプ場の区割りもない。キャンプ場は渓流沿いの林の中にある。30m程上流に行くと、小さな滝(浄蓮の滝)がある。この滝壺に飛び込むのが楽しみの一つ。

JAL123号の慰霊碑(慰霊の園)迄サイクリングした後、滝壺に入ろうとしたが、6月の滝壺は冷たすぎた。

JAL123号の慰霊碑(慰霊の園)迄サイクリング

浄蓮の滝(昨年の写真です)

キャンプでの食事

以前はまじめに、作っていたが、片付けも大変なので、パックごはんとレトルトカレーに落ち着いた。唯一作るのは、ジャガイモとニンジンと玉ねぎのホイル焼き。アルミホイルに包んで、炭の中に放り込む。

15分ほどで完成する。塩と胡椒をかけて食べる。とても美味しい(美味しそうには見えないけど…)

翌日は、御巣鷹の尾根への慰霊登山。

1985年8月12日に日本航空123便が御巣鷹の尾根に墜落し520名がなくなった事故があった。この日、私は東京から関西方面へ帰省する事になっていた。いつもは迷わず新幹線を利用するのだが、この日に限って飛行機を利用する事を一瞬考えた(結局は新幹線を利用)。

そのような事もあり、一度は慰霊登山をし、慰霊碑にお参りをしたいと思っていた。3年前から慰霊登山を計画していたが、1年目はキャンプ場閉鎖により断念。2年目は登山道に続く道路ががけ崩れで閉鎖。そして、今年ようやく、慰霊登山が実現した。

事故現場に近づいたとき、最初に目に入ったのは遺族が残した、メッセージボード。思わず目頭が熱くなる。

そして、点在する墓標。ようやくお参りをする事が出来た。

思わず目頭が熱くなる

4回目のキャンプは山梨県南アルプス市のエコパ伊奈ヶ湖

林間学校や課外授業などでも利用されるらしい。整備された広大な公園の一角にキャンプサイトがある。

入り口で、ごみの処分などの説明を聞いて、キャンプサイトまでリヤカーで荷物を運ぶ。

湖が2つ、森林科学館などもある。

早く着いたので、敷地内の散歩コースを歩く。

「熊出没」の張り紙。入口ではそのような説明はなかった。最近はどこでも熊がでる。

キャンプサイトでは、カップルがキャンプを楽しんでいたが、夕方には立ち去り、私一人となった。

ソロキャンプは、「静かに一人で時間を過ごす」事を目的としているが、独りぼっちは少し不気味。

このキャンプ場は、南アルプス市の夜景が見られることでも知られている。

夜中に夜景を見に行くと、夜景を見に来たグループと何組かすれ違った。

南アルプス市の夜景

DSC08600

日本・台湾、草の根交流

「台湾意象書法館」開館1周年記念イベントを応援する旅 
                   2024年5月15日(水)~21日(火)
 投稿 皮籠石成久 HP編集 中村一彦

台湾の有名な書家「陳世憲」さんの要請により「台湾意象法館」(書道博物館)1周年記念応援の旅を行いました。台湾に芸術家との親交が深く50回以上台湾へ訪問している知人の佐復正雄さんが声掛けをして有志が14人集まり5月15日出発組と17日出発組の2班に分かれて台湾南部から阿里山、台中(谷関温泉)、新竹、台北へと北上した台湾の旅でした。

◎印はリーダー 敬称略
5月15日(水)出発組7名
◎佐復正雄、中村努、吉川久子、山口瑛子
小澤惠美子、横山三重子、櫻井福子
5月17日(金)出発組6名
◎皮籠石成久、仲西安順、串戸健一
岩瀬有紀、北原妃登実、石田八重子
台湾周遊場所:台南市白河區、関子嶺温泉、
阿里山国家風景区、谷関温泉、
新竹市、桃園県大渓、三渓、鶯歌
※台湾意象書法館は、日本語で台湾イメージ書道博物館

「台湾意象書法館」開館1周年記念イベント応援の旅①

書とフルートの共演
吉川久子さんフルート演奏
陳さんの書、完成
佐復さん佐藤さんイベントに参加
お祝いの造花
台湾ビール

「台湾意象書法館」会館一周年記念イベント応援の旅②

台湾意象書法館前にて
阿里山麓の茶畑
阿里山麓の茶店にて
茗堂茶園」オーナー
台湾コーヒーとケーキ
阿里山を臨む
阿里山森林散策

「台湾意象書法館」開館一周年記念イベント応援の旅③

神木谷暇期ホテル全景
早朝の散歩(吊り橋)
若女将さんと有志で
明治飯店前の装飾岩
金門紹興酒
新竹晩餐会
58度の高梁酒

「台湾意象書法館」開館一周年記念イベント応援の旅④

漆工芸人間国宝「彭坤炎」先生のアトリエ前にて
三渓民宿前にて
アトリエでのフルート演奏
三渓街なかのピザ屋
民宿裏の田園風景

「台湾意象書法館」開館一周年記念イベント応援の旅 
(絵葉書:皮籠石 成久)

串戸健一さん誕生日
書とフルート演奏
阿里山森林鉄道
58度の金門高梁酒
台南市白河
台南市白河 瓦煎餅と落花生味ロール巻き

2024年5月15日(水)
~5月21日(火)14名参加。全員、怪我や病気もなく観光旅行ではない秘境と台湾の人との触れ合いの旅でした.

団長の佐復正雄さん、
ガイド兼通訳の佐藤美姿さん、
大変お世話になりました!

「台湾意象書法館」開館1周年記念イベント応援の旅感想録(佐復 正雄

皆様のご協力を得て約1年間構想を練って予定の訪問が実現いたしました。昨年の6月中旬に 「彭坤炎」さんご子息が明治神宮主催のコンテストに応募。最高賞を受賞されたのを機にご家族で来日されました。この時は川越市内をご案内し他小川町の「かわらの湯」に泊まっていただき「細川氏」の技能士「内村久子」さんの工房を訪問、懇談されました。
続く6月下旬からJAALA国際交流展出品のため「蔡守安」さんご夫妻と「陳世憲」さんが来日され、特に中村努さんのお取り計らいで群馬と新潟・上越エリアへの小旅行が実現しました。宿泊は越後湯沢にある「中村別邸宅」にお邪魔させていただきました。
お客様3人の他、佐藤美姿さんが同行いたしました。11月には、 「彭坤炎」さんが「日展」に入賞されたため奥様と来日され新橋の「根室食堂」でささやかな懇親の宴を開きました。
今年の3月21日に「陳世憲」さんが来日され、北原妃登実さんが主宰する「ギャラリー路地裏」での個展出品を行い連日知人や仲間が入れ代わり路地裏さんを訪ねて下さいました。この時に、陳世憲さんから台南市柳営区にある「敏惠医護管理専科学校」での「吉川久子」さんのフルート演奏の要請を受け、5月15日先発組7名が成田空港から高雄空港へ向かうと言う経緯がありました。
台南に2泊し「日升ホテル」支配人の「郭秋燕」さんが檀家総代している「飛虎将軍廟」で音響確認。5月17日午前、書法館近くの「竹門小学校」、午後2時~4時半「敏惠医護管理専科学校」で講義とフルート演奏。夜は王さんの家でのガーデンパーティー、5月18日「台湾意象書法館」1周年記念イベント、5月20日「彭坤炎」さんのアトリエでのフルートミニ演奏を吉川久子さんにやっていただきました。佐藤美姿さんは、現地集合。通訳の役割を十分はたしていただきました。特に、お二人にはお礼申し上げたいと思います。ありがとうございました。

(皮籠石 成久)
皆様お疲れ様でした。今回は14名の多数参加の旅でしたが、怪我や病気になる人もなく無事に旅を終えた事は何よりでした。陳世憲さんの台湾意象書法館(台湾イメージ書道博物館)開館1周年記念に作品展示(写真と絵手紙)で参加でき、日本と台湾の文化交流に役立てたと思います。観光旅行では行けない阿里山麓や関子嶺温泉、谷関温泉、桃園県大渓、三渓、鶯歌等の秘境を尋ねる事ができ、台湾の人の優しさに触れたことも旅の思い出になりました。台湾の人たちの心を魅了したフルート奏者の吉川久子さん、ガイド兼通訳の佐藤美姿さん、旅の企画者兼団長の佐復正雄さんには大変お世話になりました。謝謝!


DSC08600

新緑を訪ねて第2回「栃木市」

2024年5月15日快晴の元、第2回新緑を訪ねて、今回は栃木市を訪ねました。

幹事 大野康昭・真渓佐智子  投稿/HP編集 中村一彦

10人参加、中央は栃木市観光協会観光ボランティア荒川さん、本日、一日ご案内いただきました。
5月15日、願っても無い快晴、午前10時、JR栃木駅、東武駅、共通コンコースに集合

 日光例幣使街道の宿場町栃木は、街中を流れる巴波川を通して江戸との舟運でも栄え蔵の街としても知られています。塚田歴史伝説館、山本有三ふるさと記念館、隔年に催される秋祭りに街中を練りあるく山車を集めた山車会館等をボランティアの観光ガイドの案内で見て回ります。昼食(現地老舗料理店を予定)後は、巴波川遊覧船乗船に乗船。新緑の中、関東の小京都ともいわれる古い町並みを散策しました。

ガイド荒川さんの案内でスタート。
栃木駅からの散策、最初にあったのは、「山本有三」の石碑。「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かせなかったら、人生、生まれてきたかいがないじゃないか。
山本有三 作、路傍の石より

東西・南北への分かれ道標識。

巴波川に出ました。丁度、鯉登りの季節で1000匹以上の鯉登りが歓迎してくれました。

栃木のルーツ
1617年家康の霊柩が日光山へ会葬され、その後、朝廷からの勅使が、日光東照宮へ毎年参行する様になりました。その勅使を例弊史ということから、通る道は日光例幣使街道とよばれました。栃木はこの街道の宿場町となり、人が集まり、物が集まるようになりました。これが、商都としての発展のきっかけとなったと言われます。さらなる発展の原動力となったのは、巴波川の舟運での江戸との交易であると言われております。江戸からは日光御用の荷や塩などが運ばれ、栃木からは、木材や農産物が運ばれました。舟運は江戸の初めから利用され、次第に交易が盛んになり、江戸の終わり頃には、栃木の商人達は隆盛を極めたと言われております。その豪商達が白壁土蔵を巴波川の両岸に沿って建ててきました。
栃木市の蔵の町並みは、かっての、栄華を極めた豪商達の歴史が築いて来たものなのです。

鯉登りが騒ぐ、巴波川の東側にある100m以上続く蔵、塚田歴史伝説館を訪れました。

日本初、(世界初ですよね)三味線を弾くおばさんロボット 本物と見違えた人も。そばに猫がいるのも良いですね!
明治時代当家で使用した古道具などが展示してある。
お雛こつきからくり人形山車 ひょっとこロボット誕生。
人体ロボット蔵芝居「うずまがわ悲話」

少し長い話ですが、ぜひ、読んでください」
うずまがわ悲話昔この「巴波川」その名前の通りうずをまく暴れ川で、橋を渡しても2年と持たず人々を苦しめていた。
この巴波川が流れる村に「お雪」と「多吉」という16歳と6歳の姉弟が住んでいた。
両親は早く亡くなり親類の家に身を預けていたのだ・・・
さて、ある年また暴れ川「巴波川」が氾濫を起こし橋が流されてしまう・・・
そこで、村人たちが集まり「人柱」を立て巴波川の主「龍神」の気を静めようということになったのだ。そんな時「多吉」が病に倒れてしまう・・・しかしお雪には医者に見せるためのお金もない。
必死に村人たちにお金を貸してくれるように懇願するお雪・・・
村人はお雪が人柱になれば弟「多吉」を助けるためのお金を出し合うという・・・
自分の命を絶ってでも弟の命を助けたい・・・そんなお雪はとうとう人柱となって巴波川の激流の中へ身を沈めたのだ。
やがて巴波川の氾濫はおさまったが村人たちはお雪との約束を守ろうとしなかった・・・
しかしただひとり「鶴松」という男はお雪との約束を守り続けた。
鶴松はお雪をだれよりも好いていたのだ。
さて、お雪が人柱になって間もなくこの村に異変が起き始めた・・・
この村に子供が産まれなくなり、とうとう村中から子供の泣き声が消えてしまったのだ。
このため巴波川にかかる橋はいつしか「子無橋」(こないばし)と呼ばれるようになっていた・・・・
それから十年経ったある夜鶴松の夢枕にお雪が現れ「自分は人柱になったが、龍神は優しく自分を迎入れそして龍神の嫁となった。村に子供が産まれないのは私の怨み・・・」とうち明ける。
しかし、十年の月日が怨みを消したのでこれから子供が産まれるでしょう・・・と言って夢枕から消えていった。
果たして村のあちこちから子供の泣き声が・・・
鶴松にこの話を聞いた村人たちは自分たちの愚かさを知り108つの灯籠を巴波川に流しお雪の霊を慰めることに。
すると巴波川から龍神が現れ天高く飛び去っていったのだ・・・
以来この村では毎年8月6日には108つの灯籠を流しお雪の供養をする習わしとなった・・・

この行事は今でも続けられ栃木市では毎年8月6日には108つの灯籠を巴波川に流したくさんの人々がお雪の霊を慰めに集まって来ます。
また、子供の泣き声が聞こえるようになってから「子無橋」は「幸来橋」(こうらいばし)と名前が変えられ今でも栃木市の巴波川に掛かっています。
*本当に悲しい話ですね!涙が出ました

塚田邸の庭園で記念撮影。立派な庭園です。新緑が綺麗!
石の中から、爽やかなメロディが聞こえる。
山本有三の墓がある「近龍寺」。
山本有三の墓石。
お腹もすいてきたし、いよいよ、昼食に向かいます。皆さん、急に元気になったみたい。
太郎庵での、そば付き豪華弁当
美味しそうですね!
どれから食べようかな?
食事がおわったら、巴波川の「蔵の街遊覧専」で川から街を眺める

遊覧線乗車券です
これには、鯉登り無いですね。
季節が違うのですね。

いよいよ、乗船です。「左右均等に座ってください」と船頭さんの注意
船頭さん、たのんまっせ!
川から見上げる景色も、また良いですね!
鯉登りも一段と華やか!
橋の下からも鯉登りが見える。
餌をやると、どこからともなく鯉が何匹も集まってくる。
下船して記念撮影

これで、2024年新緑を訪ねては終了です。皆さん駅まで約8分歩いて行き、解散しました。
東武電車、栗橋経由で帰るもの、JR、小山経由で帰るもの、車で来た方もいました。
天候も良く、この季節は、沢山の鯉登りが見られて、楽しい一日をありがとうございました。

幹事:大野康昭さん
今年の新緑をたずねては、蔵の街栃木市散策でした。女性6名、男性4名、ガイドさんの案内で、塚田蔵屋敷跡、山本有三記念館の見学、昼食を挟んで、巴波川遊覧船乗船のコース、当日は、天候に恵まれ素晴らしい小旅行となりました。太郎庵さんのランチは、蔵の中に席を設けていただき、安くて、おいしかった。

幹事:真渓佐智子さん
初めて栃木散策楽しみに行きました。川まで案内されたから行けましたがもう一回行けるかしらとちょっと駅前では有りませんでした。塚田蔵屋敷は中に入りましたが、中に座っているお婆さんが実はロボットで弾き語りで三味線まで弾いているのにはびっくり、もっと驚いたのは隣に振り返っている中年の男性、実はこれもロボットだったのには本当にびっくりさせられました。見ものでした、ランチが別のクラの中でこれが1500円と言う安値なのにどれを食べてもとても美味しかったてわさ。何でも栃木のランチはどこへ入っても美味しいらしいですね。楽しい1日でした。

                                      以上