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Silicon Valley から日本を斜めに見る

講演・投稿 馬場信子、大野康昭、 司会・写真、大野康昭、 動画 米田健二、 HP編集 中村一彦

2024年11月座談会において、米国50年の滞在体験を有する会員の馬場信子さんにサンフランシス コ、シリコンバレー勤務時代のお話をお願いいたしました。(2024年11月19日、さいたま市市民サポートセンター)

シリコンバレー(Silicon Valley)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州の南部に位置する地域で、サンフランシスコ湾の南端に広がっています。この地域は、特にテクノロジー業界において世界的に有名で、多くの主要なテクノロジー企業やスタートアップが集まっています。

シリコンバレーの中心となる都市は、サンノゼ、パロアルト、マウンテンビュー、クパチーノなどで、ここにある企業には、Google、Apple、Facebook(Meta)、Teslaなど、業界をリードする企業が多数あります。この地域は、革新とテクノロジー開発の中心地として知られています。

講演された、馬場信子さんは「パルアウト」(赤丸)が 勤務地、在住地でした。

プレゼンもアメリカンスタイルで、参加者全員にネームプレートを付けていただき、二人 ずペアを組んで、話が一段落した後で時間を区切ってペアでそれぞれ意見を述べ合って話 の中身を進化させていくスタイルをとりました。

熱心に聞き入るLSC会員
COCOこと馬場信子さんの話しぶり、自己紹介(一部)
動画になってますので▶マークをクリックしてご覧下さい!

1)講師は, 英語セクレタリーとして米国企業GE、GE(ゼネラル・エレクトリック)原子力部門に勤務。                  後、石油会社、シェ ブロンの会社員と結婚。(*夫は、シェブロン日本支社の代表として、長年日本に在 住し、石油タンカーの建造のプロジェクトを担う。任務完了後、本社所在のサンフラ ンシスコに帰還する。)

2) 補足いたします。(*アメリカに移転後、大学のコースで、初期のプログラミングを 学びましたので、シリコンバレーでIT関連の仕事のオファーがあった。)

 3)*「シリコンバレー」は、サンフランシスコ南部にある有名校、スタンフォード大学 の研究所から始まったコンピューター会社、HP社から端を発す。
HP社(Hewlett-Packard Company)

かつて果樹園一面の 広大エリアに沢山の会社が創立され、発展した。HPやZerox社が、最初の会社。そし て、Apple社などが後に続く。現在は、Google, Facebook, Adobe, Oracle, などなど世 界を席巻するIT企業が点在する。 Google, Facebook, などの世界的な企業が点在する。IT関連の企業が集まる。

4)サンフランシスコ湾沿岸では、アジア人の割合は、全人口の35%程と、非常に多 い。

5)「GEEK」日本語ひとことでいえば、「おたく」と言うこと。コンピュターに特化し た天才達です。IT GEEK,簡単に言い表すと、コンピュータ・オタクの集まりです。コ ンピューター・サイエンス、IT技術者、科学専門家達が、世界中から集まりますし、 引き抜かれてくる。

 6)採用は、コンピュターに特化した人事会社からや、IT技術者の引き抜きが多い。アメ リカの社会では、差別を無くす意図から、履歴書に年齢と性別は書かない。勿論、学歴、専攻、専門分野の職歴などは、記載する。

7)「quota」割り当て、は、マイノリティーの黒人などを会社や学校に優先的に一定数い れる制度。アジア人は対象外。

8)このIT業界での就職活動において、会社との具体的な面接まで漕ぎつくのは、はなか なか大変。一つのポジションに、数千人の応募があるときもある。全国から希望者が やってくる。そんな背景から、面接までいけば多少希望がある。

9)人材会社は、Resume=レヅメ=履歴書と共に、reference(推薦人)2名が必要。身元確認のため。

10) 職場では、自分のタスクをしっかりやり切ることは、勿論、チームワーク成果を出さ なくてはなら    ないので、チームワークで働くことが求められる。それゆえ、職場=共有の“場”=への適応性が求められる。独りの独占的な能力でこなせる仕事、職環境で はない。

11) 採用に当たっては、Job.Description=仕事の内容、範囲、それについての対価=報酬 を、雇用者側と、話合った上での合意で決まる。入社後は、数カ月間に一回、(期間 は、会社による。)上司との話し合い(Review)が行われる。

12) 会社の人事部自体を、アウトソーシングを行っているところもある。プロの人事会社 である。

13)USAでは、1990年代でIT産業において全米エンジニアのうち30%は女性と言わ れていた。

14) 現在では、クオーター制は、止めたほうが良いのではないかとの意見がある。実際、 中止している会社が多々ある。能力と同一賃金との関係で、職場の不公正があり、 ちゃんと一生懸命働いている社員に悪影響を及ぼしているからである。

ここでペアそれぞれが一人2分間のタイムで問題点を討議(Pair-Share) これまで聞い て、各自の意見、感想を発言し合う。

アメリカ社会  ボランティアやNPOの活動が盛ん

 1) 妻―夫の求められる役割

2)パーティーなどは盛んに開かれるが、その場合男性の役割、女性の役割がはっきりし ている

3) 日本語と英語、 会話のスピードは日本語の4倍の速さである。Google社のトップレ ベルのエンジニアは、普通のエンジニアの10万倍の能力があるといわれている。人 間の能力は、測り方がわからない。特に、幼い子供たち、若い子供たちに接するとき は、言語に十分気をつけているべし。4.―日本が生き残るすべ

ー ここで再び一人5分間でpair で討論して理解を深化させる
座談会を終えて、翌日の会員のグループラインでの参加者の感想

1)非常に面白い興味の持てる話でした。エンジニアを採用する仕事に関わったことがあ る。  仕事の仕方もITエンジニアと一般の人では全く異なる。人事部のアウトソーシングの話  

2)目からウロコの話しもたくさんあった。職場で大事なことはチームワーク、ディベイト を 通してしてチームとして成果を上げていく。家庭で大事なことは役割をきちんとこなす こと(会員Oさん)

3)座談会すごくよかったです。人種の差別、不平等は永遠のテーマです。(会員Mさ ん)

4)講師―日本では当たり前の学歴、どこの有名大学等はシリコンバレーでは通用しない   その中でビルーゲイツやスティーブ.ジョブズが生まれたー その通りだと思う。その 子の持つ能力を認め、のびのびとした環境で伸ばすべき(会員Mさん)

                      完

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2024年新蕎麦試食会

投稿 田中靖人 HP編集 中村一彦
新そば試食会幹事 大野康昭 田中靖人

今年も新蕎麦試食会を、10月10日上落合コミュニティセンターの調理室を借りて行いました。男性4名、女性5名の参加でした。蕎麦打ち会の柏倉さんが、朝一番で打った新蕎麦とザル等の道具も持参してくれました。柏倉さん指導のもとに鍋の沸騰したお湯で温めて水、氷で冷やしてザルに盛り付け、天ぷらを添えて蕎麦つゆで食べました。北海道産のほろかないという新蕎麦で大変美味しいかったです。蕎麦を食べながらのお話し、準備作業、皿洗い等の後片付け等の共同作業で、皆さんの懇親を深める事が出来ました。今回は少人数でしたが、来年はもっと多くの方に参加頂ければと思います。

蕎麦の湯で上がりを待ちながら、蕎麦つゆ、天ぷらの準備
出来上がったので、順番にさあ食べよう
柏倉さんの説明、指導
試食中、美味しそう
試食中、美味しそう

お腹いっぱい、かたずけも終わったので皆んなで記念写真(1)
田中さんはこの写真撮影の為に、写真に入ってません。

新そば試食会幹事 大野康昭さん、田中靖人さんご苦労様でした。
柏倉さん,何時もありがとうございます。
また、来年が楽しみですね!!

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ミャンマー日本語学校 滞在報告

投稿 谷口良雄 HP編集 中村一彦

2022年末、LSCの中村さんから 「知り合いがミャンマーの日本語学校の日本語教師をさがしているが、どう?」と話があった。ミャンマーは、国内が紛争中でもあったが、中国で長年日本語を教えていた経験もあり、外国人の日本語教育に興味があったことから受けることにしました。

日本語学校はミャンマーの主都ネーピードの南約1800Kmにあるミャンマーの最大都市ヤンゴンにある。年中 気温が37度から40度前後の常夏です。

ヤンゴンでは、雨季にはたびたびスコールの激しい雨音のため、ときどき授業が中断させられることがあります。それは、話が聞こえなくなるからです。
また乾季でも、時にはいきなり雨が降りだすこともあります。
そんな時に学生は「あっ 雨だ!先生 失礼します!」と言いながらクラスの半数近くが教室を飛び出す。外に干してある洗濯物を取り込むためです。

ここでは、そんな日常の学校での様子を中心にお話し致します!

ミャンマーの寺院が東松山にあると聞いたので参考にと、赴任前に見に行った。

東松山市にあるミャンマーの寺院

ヤンゴンについた日の夕方、社長(日本語学校の経営者)夫妻と食事

ミャンマーの海鮮料理

ミャンマーの国民食といわれる“ムヒンガ-”

ミャンマーでは一般的な
カレンダー

サッカーと同じように人気がある ミャンマーの「蹴鞠けまり」
チンロン。

与えられた私の部屋。

学生寮は二階にあり、この部屋は一階。壁の隣は教室。家具はベッドと本棚だけ。カーテンは両端まで届かない短さ。机がなかったので隣の教室から勝手に部屋に持ち込んだ。椅子も。エアコンも無かったので、頼んで入れてもらった。入るまでの一週間は40度前後の暑さに耐えなければならなかった。しかし、停電が毎日8~10時間あるのでエアコンは止まる。

事務所は発電機があるのでエアコンは大丈夫だが・・・・。

3月 4月 5月は一年で最高に暑い時期。そのため外で寝る生徒があちらこちらに。

まるで避難民のようにみえた。

水浴、洗濯はここでする。ミャンマー人は人前で素っ裸になる習慣はないのでパンツかショートパンツ、またはロンジン(巻きスカート)を身に着ける。

女性はロンジン付をけている。

夕食後、ギターを弾きながら歌いくつろぐ生徒。ギターが弾ける生徒は結構多い。

ミャンマー到着後初めての日曜日、ヤンゴン最大の寺院‘’シュエダゴンパゴダ。

辛い料理が多い中で、比較的に合った麺料理。

レストランのメニュー、右側は料金。数字で表すレストランもあるが・・・

日本語学校はこのような住宅地に囲まれている。

高級住宅街の隣を流れている川の対岸には、このような平屋の住宅街が。電気や上下水道は引かれていない

パンをコーヒの中に浸して食べるのが普通らしい

ヤンゴン最大のカソリック教会、セントメリー教会。クリスチャンの学生に何回か連れて行ってもらったが、ミャンマー語なのでさっぱりわからず、賛美歌だけは

電光表示のアルファベットで何とか読めた。

この教会はイギリス人が宣教に来て建てた、歴史ある建物。なお、ミャンマーのキリスト教人口はおよそ7%といわれている(日本は約1%)

会堂の内部。装飾が素晴らしい。なお、教会に集う年齢層で日本と違うのは、比較的に若い層が目立つことだ。

ヤンゴン市内のカントジー湖に浮かぶレストラン兼ホテル。

ヤンゴン市内の環状線、東京の山の手線と同じくらいの距離を一周3時間かけて走る。ただし、一周するダイヤは1にちに1本だけ。 他は途中止まりのダイヤ編成。

ドアーも窓も開けたまま走る。時速20㎞なので危険ではない?地元の人の話では「いつでも乗れて、いつでも降りられるように」とか。

なお、この電車の行先表示は「快速 岐阜行き」だった。

駅のホームで遊んでいた少年と。 ベンチに座っていた時、少年のひとりが私の前にやってきて、突然ひざまついて両手と額を地面につけて3度拝むようなことをした。そして 素早く立ち去った。私は驚いて 生徒に

いったい どうしたの?」と尋ねたところ、「あの子は お年寄りに対する尊敬の気持ちを表したんです」と答えた。

日本語教師だけのlunch meeting。私が提案し、学校近くのレストランで月一回、定例のコミュニケーションを持つようにした。

レストランでの鍋料理、人数が多いとき このような鍋をとることが多い

日本語学校を修了して、いよいよ日本に向けて出発する日に学校前でお別れの記念撮影。

12月23日、24日は学校周辺の家々を訪れ、クリスマスの歌を唄って祝った。

昼間は37度~40度、夜になっても32度前後で、「これはたまらん」と、寮の前にある砂で埋まった子ども用プールを改良して遊んだ。

全身を水に浸したのは何年振りか。気持ちがいい!

日本に行くことが決まっての送別会・解散会。

四月は水祭り(ティンジャン)の行事。いくつかの少数民族の踊りが披露された。

軍事クーデター以後は、「軍事政権が設置する水祭り会場(市内数カ所)には参加しないで、自宅前の路上で水をかけ合った市民が多い、という」

水をかける人も かけられる人もワイワイ、キャーキャーと とっても賑やか。

水かけ祭りは二日間続く。

生徒四人と教師一人と一緒にヤンゴン市内のチャイナタウンで食事。

日本に旅立つ生徒を見送りに来た僧侶、・・・青年は日本語学校修了後に、頭髪を短くしてお寺に籠った(ヤンゴンンゴン国際空港で)

彼(後列左から三人目)の家族と親戚。

彼の両端が両親、前列左から二人目は妹、前列右端は弟。

こうして空港まで見送りに来る家族はとても少ない。

多くの生徒の故郷はヤンゴン市以外の郊外や田舎。

内戦が激しくなっているために、道路が寸断されていたり、国軍が通行止めにしているので路線バスは運航中止していることが多い。

母親は涙を流しながら息子と別れを惜しむ。

街を歩いていると、消防署に “JAPAN”と記された消防車を見かけた。反対側には日の丸とミャンマーの国旗が描かれていた。

ヤンゴン市内の観光名所の一つ。シュエダゴン パコダの前で。

ヤンゴン市内の目抜き通り。

生徒が持っているバイクに乗せてもらって、スーパーへ買い物に。

教室の様子。

校庭で全校集会、社長兼校長は授業中でも お構いなく「今すぐ 全員集合せよ」と招集をかける。

大して急ぎの内容でもないのに・・・・・。その心理が理解出来ない・・・・。

ミャンマーの常識は 日本の非常識?

クラスの解散式*卒業式

教室ではミャンマー料理を作ってみんなでお別れの食事。

卒業の日に床に座って祈り、そして両手と額を床につけて感謝の気持ちを表すのがミャンマーの習慣、文化。

7月7日の七夕飾り、教師の一人が自宅の庭から持ってきた竹に皆で願い事を書いた。

願い事は意味不明なものもあったが、「無事に日本へいけますように」とか、「戦争が早く終わりますように」等が書かれている。

学校の隣を流れる川、砂利運搬船が一日中通過する。

夜になると川べりの公園に集まって、食べたり飲んだり、歌ったりする。

受業の合間に気分転換の意味で、ダンスをした。チョットだけのつもりが90分間を使ってしまった、なんてことも。

生徒を連れてヤンゴン市内の高層ビルの中にある「ヤンゴン日本人会」を訪れた。

これも気分転換の一環(のうもり)で・・・・「横並び一斉じゃんけんゲーム」

ゲームのようで、そうじゃない。

土曜日の夜の
「日本語コーナー」

「終わりに&追記」谷口良雄

道路は川のようになり、水が膝近くまである道を歩いてスーパーなどに行かざるを得ません。
革靴やスニーカーなどを履いている人はまずいません。私も地元の人と同じようにサンダルばきで、時にはショートパンツで外出します。

教室にはエアコンがないので常に窓を開けています。
大きな雨音で、この時も授業が中断されます。教師や生徒の話が聞こえなくなるからです。また、乾季の季節でもしばしば いきなり雨が降り出し、「あっ!雨だ!先生失礼します!」と言って、半数ほどの生徒が急いで教室を飛び出します。
外に干してある洗濯物を取込みに行くためです。

何が起きるか予測がつかないことが多いのですが、みんな優しく明るく、そして素直な人が多いです。
3食とも学校の食堂で生徒と一緒に食事をしますが、その時は出来るだけ個人的な質問などをして、一人一人の背景を聞き出します。言語上のギャップで詳しく知ることは難しい面もあります。
特に政治的な話題はこちらから切り出さないと話してくれません。でも、決して言いたくないのではなく、そこまでの日本語力がないためであり、聞けば大抵答えてくれます。故郷や家庭の様子を尋ねると「私の家は国軍に放火された。村の大半は壊された。家族や村人は山や森、あるいはお寺に避難した」という話は何人もから聞くことが出来ました。中には「私の兄は国軍と戦って殺された」とか「友だちの何人かは少数民族武装軍に入っていて国軍と戦っている」と話す人もいました。さらに「故郷に帰ることが出来なくなった。道路は封鎖され、電話回線やインターネットが遮断されている。家族が無事にいるのか、家が壊されずに今でもあるのか、もわからない」という生徒もかなりいました。


ミャンマー全土の半数は、インターネットや電話回線が遮断されているとのニュースがあります。卒業したが故郷に帰れなくなって、そのまま学校に泊まり込んでいる生徒は数十人に上りま「内戦の避難民」ともいう人たちです。
軍事クーデターから23年9月で既に3年半、各地の戦闘は収まるどこ.ろか、ますます全土に拡がりつつあります。24年9月10日、民主派NUG(国民統一政府)の大統領代行が演説しました。「我々は最後には必ず勝利する」と。今、世界の各地で戦争や紛争が起きていて、ミャンマー情勢はほとんど報道されなくなりました。国内外の避難民は300万人以上とも言われ、国連によるとミャンマー国民の半数は極貧状態にあると発表されています。


一時期は「アジア最後のフロンティア」言われ、外国から(日本からも)多くの企業が進出して来ました。しかし、軍事クーデター以降は引き揚げる企業が続出して経済は著しく失速しました。欧米からの経済制裁でも大きな打撃を受けています。その上、ミャンマー軍は最近、軍事費を大幅に増やしました。今、多くのミャンマーの若者が日本に働きに来ています。内戦で家が壊され、家族と連絡を断たれた人も多いはずです。

日本で、ご近所で、ミャンマーの若者(特に)見かけたら、ぜひ ひとこと声をかけてあげてください。母国の言葉を耳にすると、きっと心が和むことでしょう。嬉しい気持ちになるかも知れません。仕事以外で一般の市民と接する機会はほとんどない、とよく耳にしますから。(「こんにちわ!」は「ミンガラバ」と言います。
                                           以上

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「ニューサンピア埼玉おごせ」でのソロキャンプ

投稿 米田健二 HP編集 中村一彦

夏と言えば、キャンプ。家族や仲間と過ごすものと思っていたが、コロナで外出が制限される中、ソロキャンプが急増。コロナが終息した今もソロキャンプは多い。
今シーズンの発キャンプは総合レジャー施設「ニューサンピア埼玉おごせ」レジャー施設の敷地にソロキャンプ専用のキャンプ場を発見。施設内の温泉も利用可能との触れ込み。ホテルの受付でチェックイン。キャンプに来てホテルでチェックインとは、なんとも興ざめである。

70段の階段を上る

キャンプ場専用の駐車場に車を止め、そこからキャンプ場まで山中の階段を70段。息を切らせながら5往復して、荷物を運んだ。テントを設営して、木にハンモックを掛ける。レジャー施設の裏手ではあるが、喧噪は聞こえない。木々がこすれあう音、虫の音、鳥の声。何もしない。ただハンモックに横になり、ハンモックを揺らすための紐をリズミカルに引っ張るだけ。このキャンプ場は、市街地に近く行きやすい。山奥まで行かなくても、自然は楽しめる。

しかし、70段の階段はキツイ。建物であれば5階ぐらいの高さはあると思う。トイレも階段の下。

2回目は定峰清流キャンプ場

よく整備された、今風のキャンプ場。常設のグランピング用のテントやバーなどの施設も充実。シャワーなども利用可能。トイレもとてもきれいで、温水洗浄便座付き。グランピング施設を横目に、林間サイトに入る。30組ぐらいいるが、約半数はソロキャンプ。清流と言う名前の通り、キャンプ場内に川がある。受け付け時に「水辺では蛍も見られますよ」と聞いた。いつものように、テントを設営して、ハンモックをつるす。
ハンモックを渡す適当な木がなく、何度もやり直す事になった。

定峰清流キャンプ場

3回目は上野村の野栗キャンプ場

ここは最もお気に入りのキャンプ場、3年連続できている。1年目はコロナの真っ只中。キャンプ場まで来たが閉鎖。2年目は去年。トイレと水場だけはあるが、他には何もない。キャンプ場の区割りもない。キャンプ場は渓流沿いの林の中にある。30m程上流に行くと、小さな滝(浄蓮の滝)がある。この滝壺に飛び込むのが楽しみの一つ。

JAL123号の慰霊碑(慰霊の園)迄サイクリングした後、滝壺に入ろうとしたが、6月の滝壺は冷たすぎた。

JAL123号の慰霊碑(慰霊の園)迄サイクリング

浄蓮の滝(昨年の写真です)

キャンプでの食事

以前はまじめに、作っていたが、片付けも大変なので、パックごはんとレトルトカレーに落ち着いた。唯一作るのは、ジャガイモとニンジンと玉ねぎのホイル焼き。アルミホイルに包んで、炭の中に放り込む。

15分ほどで完成する。塩と胡椒をかけて食べる。とても美味しい(美味しそうには見えないけど…)

翌日は、御巣鷹の尾根への慰霊登山。

1985年8月12日に日本航空123便が御巣鷹の尾根に墜落し520名がなくなった事故があった。この日、私は東京から関西方面へ帰省する事になっていた。いつもは迷わず新幹線を利用するのだが、この日に限って飛行機を利用する事を一瞬考えた(結局は新幹線を利用)。

そのような事もあり、一度は慰霊登山をし、慰霊碑にお参りをしたいと思っていた。3年前から慰霊登山を計画していたが、1年目はキャンプ場閉鎖により断念。2年目は登山道に続く道路ががけ崩れで閉鎖。そして、今年ようやく、慰霊登山が実現した。

事故現場に近づいたとき、最初に目に入ったのは遺族が残した、メッセージボード。思わず目頭が熱くなる。

そして、点在する墓標。ようやくお参りをする事が出来た。

思わず目頭が熱くなる

4回目のキャンプは山梨県南アルプス市のエコパ伊奈ヶ湖

林間学校や課外授業などでも利用されるらしい。整備された広大な公園の一角にキャンプサイトがある。

入り口で、ごみの処分などの説明を聞いて、キャンプサイトまでリヤカーで荷物を運ぶ。

湖が2つ、森林科学館などもある。

早く着いたので、敷地内の散歩コースを歩く。

「熊出没」の張り紙。入口ではそのような説明はなかった。最近はどこでも熊がでる。

キャンプサイトでは、カップルがキャンプを楽しんでいたが、夕方には立ち去り、私一人となった。

ソロキャンプは、「静かに一人で時間を過ごす」事を目的としているが、独りぼっちは少し不気味。

このキャンプ場は、南アルプス市の夜景が見られることでも知られている。

夜中に夜景を見に行くと、夜景を見に来たグループと何組かすれ違った。

南アルプス市の夜景

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日本・台湾、草の根交流

「台湾意象書法館」開館1周年記念イベントを応援する旅 
                   2024年5月15日(水)~21日(火)
 投稿 皮籠石成久 HP編集 中村一彦

台湾の有名な書家「陳世憲」さんの要請により「台湾意象法館」(書道博物館)1周年記念応援の旅を行いました。台湾に芸術家との親交が深く50回以上台湾へ訪問している知人の佐復正雄さんが声掛けをして有志が14人集まり5月15日出発組と17日出発組の2班に分かれて台湾南部から阿里山、台中(谷関温泉)、新竹、台北へと北上した台湾の旅でした。

◎印はリーダー 敬称略
5月15日(水)出発組7名
◎佐復正雄、中村努、吉川久子、山口瑛子
小澤惠美子、横山三重子、櫻井福子
5月17日(金)出発組6名
◎皮籠石成久、仲西安順、串戸健一
岩瀬有紀、北原妃登実、石田八重子
台湾周遊場所:台南市白河區、関子嶺温泉、
阿里山国家風景区、谷関温泉、
新竹市、桃園県大渓、三渓、鶯歌
※台湾意象書法館は、日本語で台湾イメージ書道博物館

「台湾意象書法館」開館1周年記念イベント応援の旅①

書とフルートの共演
吉川久子さんフルート演奏
陳さんの書、完成
佐復さん佐藤さんイベントに参加
お祝いの造花
台湾ビール

「台湾意象書法館」会館一周年記念イベント応援の旅②

台湾意象書法館前にて
阿里山麓の茶畑
阿里山麓の茶店にて
茗堂茶園」オーナー
台湾コーヒーとケーキ
阿里山を臨む
阿里山森林散策

「台湾意象書法館」開館一周年記念イベント応援の旅③

神木谷暇期ホテル全景
早朝の散歩(吊り橋)
若女将さんと有志で
明治飯店前の装飾岩
金門紹興酒
新竹晩餐会
58度の高梁酒

「台湾意象書法館」開館一周年記念イベント応援の旅④

漆工芸人間国宝「彭坤炎」先生のアトリエ前にて
三渓民宿前にて
アトリエでのフルート演奏
三渓街なかのピザ屋
民宿裏の田園風景

「台湾意象書法館」開館一周年記念イベント応援の旅 
(絵葉書:皮籠石 成久)

串戸健一さん誕生日
書とフルート演奏
阿里山森林鉄道
58度の金門高梁酒
台南市白河
台南市白河 瓦煎餅と落花生味ロール巻き

2024年5月15日(水)
~5月21日(火)14名参加。全員、怪我や病気もなく観光旅行ではない秘境と台湾の人との触れ合いの旅でした.

団長の佐復正雄さん、
ガイド兼通訳の佐藤美姿さん、
大変お世話になりました!

「台湾意象書法館」開館1周年記念イベント応援の旅感想録(佐復 正雄

皆様のご協力を得て約1年間構想を練って予定の訪問が実現いたしました。昨年の6月中旬に 「彭坤炎」さんご子息が明治神宮主催のコンテストに応募。最高賞を受賞されたのを機にご家族で来日されました。この時は川越市内をご案内し他小川町の「かわらの湯」に泊まっていただき「細川氏」の技能士「内村久子」さんの工房を訪問、懇談されました。
続く6月下旬からJAALA国際交流展出品のため「蔡守安」さんご夫妻と「陳世憲」さんが来日され、特に中村努さんのお取り計らいで群馬と新潟・上越エリアへの小旅行が実現しました。宿泊は越後湯沢にある「中村別邸宅」にお邪魔させていただきました。
お客様3人の他、佐藤美姿さんが同行いたしました。11月には、 「彭坤炎」さんが「日展」に入賞されたため奥様と来日され新橋の「根室食堂」でささやかな懇親の宴を開きました。
今年の3月21日に「陳世憲」さんが来日され、北原妃登実さんが主宰する「ギャラリー路地裏」での個展出品を行い連日知人や仲間が入れ代わり路地裏さんを訪ねて下さいました。この時に、陳世憲さんから台南市柳営区にある「敏惠医護管理専科学校」での「吉川久子」さんのフルート演奏の要請を受け、5月15日先発組7名が成田空港から高雄空港へ向かうと言う経緯がありました。
台南に2泊し「日升ホテル」支配人の「郭秋燕」さんが檀家総代している「飛虎将軍廟」で音響確認。5月17日午前、書法館近くの「竹門小学校」、午後2時~4時半「敏惠医護管理専科学校」で講義とフルート演奏。夜は王さんの家でのガーデンパーティー、5月18日「台湾意象書法館」1周年記念イベント、5月20日「彭坤炎」さんのアトリエでのフルートミニ演奏を吉川久子さんにやっていただきました。佐藤美姿さんは、現地集合。通訳の役割を十分はたしていただきました。特に、お二人にはお礼申し上げたいと思います。ありがとうございました。

(皮籠石 成久)
皆様お疲れ様でした。今回は14名の多数参加の旅でしたが、怪我や病気になる人もなく無事に旅を終えた事は何よりでした。陳世憲さんの台湾意象書法館(台湾イメージ書道博物館)開館1周年記念に作品展示(写真と絵手紙)で参加でき、日本と台湾の文化交流に役立てたと思います。観光旅行では行けない阿里山麓や関子嶺温泉、谷関温泉、桃園県大渓、三渓、鶯歌等の秘境を尋ねる事ができ、台湾の人の優しさに触れたことも旅の思い出になりました。台湾の人たちの心を魅了したフルート奏者の吉川久子さん、ガイド兼通訳の佐藤美姿さん、旅の企画者兼団長の佐復正雄さんには大変お世話になりました。謝謝!


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新緑を訪ねて第2回「栃木市」

2024年5月15日快晴の元、第2回新緑を訪ねて、今回は栃木市を訪ねました。

幹事 大野康昭・真渓佐智子  投稿/HP編集 中村一彦

10人参加、中央は栃木市観光協会観光ボランティア荒川さん、本日、一日ご案内いただきました。
5月15日、願っても無い快晴、午前10時、JR栃木駅、東武駅、共通コンコースに集合

 日光例幣使街道の宿場町栃木は、街中を流れる巴波川を通して江戸との舟運でも栄え蔵の街としても知られています。塚田歴史伝説館、山本有三ふるさと記念館、隔年に催される秋祭りに街中を練りあるく山車を集めた山車会館等をボランティアの観光ガイドの案内で見て回ります。昼食(現地老舗料理店を予定)後は、巴波川遊覧船乗船に乗船。新緑の中、関東の小京都ともいわれる古い町並みを散策しました。

ガイド荒川さんの案内でスタート。
栃木駅からの散策、最初にあったのは、「山本有三」の石碑。「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かせなかったら、人生、生まれてきたかいがないじゃないか。
山本有三 作、路傍の石より

東西・南北への分かれ道標識。

巴波川に出ました。丁度、鯉登りの季節で1000匹以上の鯉登りが歓迎してくれました。

栃木のルーツ
1617年家康の霊柩が日光山へ会葬され、その後、朝廷からの勅使が、日光東照宮へ毎年参行する様になりました。その勅使を例弊史ということから、通る道は日光例幣使街道とよばれました。栃木はこの街道の宿場町となり、人が集まり、物が集まるようになりました。これが、商都としての発展のきっかけとなったと言われます。さらなる発展の原動力となったのは、巴波川の舟運での江戸との交易であると言われております。江戸からは日光御用の荷や塩などが運ばれ、栃木からは、木材や農産物が運ばれました。舟運は江戸の初めから利用され、次第に交易が盛んになり、江戸の終わり頃には、栃木の商人達は隆盛を極めたと言われております。その豪商達が白壁土蔵を巴波川の両岸に沿って建ててきました。
栃木市の蔵の町並みは、かっての、栄華を極めた豪商達の歴史が築いて来たものなのです。

鯉登りが騒ぐ、巴波川の東側にある100m以上続く蔵、塚田歴史伝説館を訪れました。

日本初、(世界初ですよね)三味線を弾くおばさんロボット 本物と見違えた人も。そばに猫がいるのも良いですね!
明治時代当家で使用した古道具などが展示してある。
お雛こつきからくり人形山車 ひょっとこロボット誕生。
人体ロボット蔵芝居「うずまがわ悲話」

少し長い話ですが、ぜひ、読んでください」
うずまがわ悲話昔この「巴波川」その名前の通りうずをまく暴れ川で、橋を渡しても2年と持たず人々を苦しめていた。
この巴波川が流れる村に「お雪」と「多吉」という16歳と6歳の姉弟が住んでいた。
両親は早く亡くなり親類の家に身を預けていたのだ・・・
さて、ある年また暴れ川「巴波川」が氾濫を起こし橋が流されてしまう・・・
そこで、村人たちが集まり「人柱」を立て巴波川の主「龍神」の気を静めようということになったのだ。そんな時「多吉」が病に倒れてしまう・・・しかしお雪には医者に見せるためのお金もない。
必死に村人たちにお金を貸してくれるように懇願するお雪・・・
村人はお雪が人柱になれば弟「多吉」を助けるためのお金を出し合うという・・・
自分の命を絶ってでも弟の命を助けたい・・・そんなお雪はとうとう人柱となって巴波川の激流の中へ身を沈めたのだ。
やがて巴波川の氾濫はおさまったが村人たちはお雪との約束を守ろうとしなかった・・・
しかしただひとり「鶴松」という男はお雪との約束を守り続けた。
鶴松はお雪をだれよりも好いていたのだ。
さて、お雪が人柱になって間もなくこの村に異変が起き始めた・・・
この村に子供が産まれなくなり、とうとう村中から子供の泣き声が消えてしまったのだ。
このため巴波川にかかる橋はいつしか「子無橋」(こないばし)と呼ばれるようになっていた・・・・
それから十年経ったある夜鶴松の夢枕にお雪が現れ「自分は人柱になったが、龍神は優しく自分を迎入れそして龍神の嫁となった。村に子供が産まれないのは私の怨み・・・」とうち明ける。
しかし、十年の月日が怨みを消したのでこれから子供が産まれるでしょう・・・と言って夢枕から消えていった。
果たして村のあちこちから子供の泣き声が・・・
鶴松にこの話を聞いた村人たちは自分たちの愚かさを知り108つの灯籠を巴波川に流しお雪の霊を慰めることに。
すると巴波川から龍神が現れ天高く飛び去っていったのだ・・・
以来この村では毎年8月6日には108つの灯籠を流しお雪の供養をする習わしとなった・・・

この行事は今でも続けられ栃木市では毎年8月6日には108つの灯籠を巴波川に流したくさんの人々がお雪の霊を慰めに集まって来ます。
また、子供の泣き声が聞こえるようになってから「子無橋」は「幸来橋」(こうらいばし)と名前が変えられ今でも栃木市の巴波川に掛かっています。
*本当に悲しい話ですね!涙が出ました

塚田邸の庭園で記念撮影。立派な庭園です。新緑が綺麗!
石の中から、爽やかなメロディが聞こえる。
山本有三の墓がある「近龍寺」。
山本有三の墓石。
お腹もすいてきたし、いよいよ、昼食に向かいます。皆さん、急に元気になったみたい。
太郎庵での、そば付き豪華弁当
美味しそうですね!
どれから食べようかな?
食事がおわったら、巴波川の「蔵の街遊覧専」で川から街を眺める

遊覧線乗車券です
これには、鯉登り無いですね。
季節が違うのですね。

いよいよ、乗船です。「左右均等に座ってください」と船頭さんの注意
船頭さん、たのんまっせ!
川から見上げる景色も、また良いですね!
鯉登りも一段と華やか!
橋の下からも鯉登りが見える。
餌をやると、どこからともなく鯉が何匹も集まってくる。
下船して記念撮影

これで、2024年新緑を訪ねては終了です。皆さん駅まで約8分歩いて行き、解散しました。
東武電車、栗橋経由で帰るもの、JR、小山経由で帰るもの、車で来た方もいました。
天候も良く、この季節は、沢山の鯉登りが見られて、楽しい一日をありがとうございました。

幹事:大野康昭さん
今年の新緑をたずねては、蔵の街栃木市散策でした。女性6名、男性4名、ガイドさんの案内で、塚田蔵屋敷跡、山本有三記念館の見学、昼食を挟んで、巴波川遊覧船乗船のコース、当日は、天候に恵まれ素晴らしい小旅行となりました。太郎庵さんのランチは、蔵の中に席を設けていただき、安くて、おいしかった。

幹事:真渓佐智子さん
初めて栃木散策楽しみに行きました。川まで案内されたから行けましたがもう一回行けるかしらとちょっと駅前では有りませんでした。塚田蔵屋敷は中に入りましたが、中に座っているお婆さんが実はロボットで弾き語りで三味線まで弾いているのにはびっくり、もっと驚いたのは隣に振り返っている中年の男性、実はこれもロボットだったのには本当にびっくりさせられました。見ものでした、ランチが別のクラの中でこれが1500円と言う安値なのにどれを食べてもとても美味しかったてわさ。何でも栃木のランチはどこへ入っても美味しいらしいですね。楽しい1日でした。

                                      以上

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盛大にカラオケパーティ(カラオケ同好会)

投稿 大野康昭  HP編集 中村一彦

今回、4月11日(木)LSCカラオケ同好会(リーダー新井新冶)は、大宮公園駅近くのカラオケスナックウインクでの開催です。以前は、大宮カラオケ店でやっていたのですがカラオケスナックは、ステージもあり、飲食物も持ち込み可能で長時間貸し切りでできるので盛り上がります、
私共カラオケパーティーも、今年1月の新年会から皮籠石さんんも加わり、更に新会員の野田さんも
奥様とご一緒に参加されたりと盛り上がってきました。更に田中副理事長の女性のお友達(シャンソン歌手)も参加され、お上手な方が増えレベルが高くなりました。これからも新井リーダーのもと、
回数を増やしていきたいと考えています。

左から、新会員 野田さんご夫婦、 峯尾さん
左から副理事長田中さん、宮下さん、田中さんの友人、シャンソン歌手の大津さん。

大野さん、ご自慢の「旅の終わりに(冠 二郎)」を得意に歌う・・・楽しそう!

熱唱する大津さん(田中さんの友人でシャンソン歌手)美川憲一のシャンソン「生きる」とカンツオーネ「愛は限りなく」・・・・。 大津さんは、6月28日に与野にある「彩の国さいたま芸術劇場」小ホールで、シャンソン、カンツォーネを歌われるそうです。(入場無料です)
左から大野さん、田中さん、
宮下さん(ちょっと陰になってますが)
新井さん、皮籠石さん
左から田中さん、宮下さん皮籠石さん、新井さん

新しい方も参加され、カラオケも益々盛んになってきました。
カラオケの声自慢、懇親にぜひご参加下さい。
               (カラオケ同好会リーダー 新井新冶)

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ロングステイクラブ新年会鬼怒川温泉の旅 

投稿 皮籠石成久 HP編集 中村一彦

皆様お疲れ様でした。今回は7名だけの新年会でしたが、なんだかぽっこりした楽しいもので今、関東平野を夕日をチラチラみながら帰途に着いています。
峯尾さんが帰った後とんだお笑いの事が起こりました。電車に乗って終点に着いたと喜んだら何とまた東武日光駅でした。東武日光駅を出てまた同じ場所に帰ってきたのです。全員のぼんやりミスで慌てふためきタクシーで鬼怒川ホテルへ。一人2,500円の2台に分乗しフルスピードで走ってもらい、無事時間内に間に合い、今こうして帰りの送迎バスに乗っています。飛行機でなくてよかったです。

 昨夜は、特別室でグループの会席料理、その後のカラオケがまた素晴らしいものでした。王座を死守していた田中さんのライバル皮籠石さんが登場、情感たっぷりに、歌いこみ、田中さんと甲乙つかない歌いぷりでした。私は初めて宮下さんの歌を聴いてすっかり虜になりました。上手なんですね。峯尾さんはセーラー服が何とかと私の全く知らない歌を堂々と歌い歳の差を感じました。大野さんは静かに歌い込みこれもまた素敵でした。私はオンチもあり歌わないことにしていたのですが皆に引っ張られ歌ってみたら結構楽しいんですね。凝りそうな気配。こんな1泊の新年会。人数が少なかったのがちょっと残念でしたが、充実したこぢんまりした会でした。幹事の宮下さんは、さすがに手馴れていて最後助けられました。お疲れ様でした。皆様、新都心に着いた後も気をつけてお帰りください。
(幹事 マタ二)

・マタニさん、旅のアレンジありがとうございました。皆さん個性豊かな方で、大いに楽しめた新年会でした。伊藤園3時間カラオケは、初めてで感動しました。今晩は、ゆっくりお休みください。
(幹事 宮下)

・今回、初めて参加させていただきました。伊藤園ホテルさくらではカラオケデビュー。控えめに5曲歌わせてもらいました。日光の水羊羹の店まで歩かせてしまい申し訳ないと思っています。幹事の真渓さん、宮下さんには大変お世話になりました。次の企画にも参加し楽しい時間を共有したいと思います。(皮籠石)

・買ってきた水羊羹を食べながら楽しかった新年会旅行の余韻にふけっているところです。真渓さん、宮下さんお世話になりました。初参加の皮籠石さん、原さんも盛り上げていただきありがとうございます。(大野)

・真渓さん、宮下さん大変楽しい新年会の企画・運営、有難う御座いました。ハプニングがあったんですね。(峯尾)

・お疲れ様でした。ありがとうございました。思い出に残る旅でした。集合写真おくります。(田中)

・幹事の真渓さん、宮下さんお世話様でした。家路に着きました。皆様有り難うございました。(原)

伊藤園ホテル「ニューさくら」前にて!
宴会場にて夕食
満願の笑み
カラオケ大会
下今市駅から男体山を望む
東武日光駅前
日光東照宮入り口 神橋
神橋前で記念撮影
絵手紙 水羊羹 (皮籠石さん作品)

今回の参加者

幹事:真渓さん、宮下さん
大野さん、峯尾さん、田中さん、原さん、皮籠石
天候にも恵まれ、往復の伊藤園送迎バスで快適。鉄道を利用しての
鬼怒川温泉駅から東武日光駅、途中トラブル発生するも小さな旅を満喫してきました。
                                 皮籠石 成久

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LSC 久し振りの台北旅行

投     稿 (文/構成)大野康昭    :   (写  真)田中靖人、中村一彦 
HP編集 中村一彦

 コロナウイルス感染症の終息新型コロナウイルス明け(2023年5月8日の新型コロナウイルスの感染症法5類に移行)の昨年12月にLSC海外旅行として3泊4日の台湾台北旅行を実施したので、旅行紀として纏めます。過去4年にわたり新型コロナウィルス感染対策により、自粛を強いられてきた海外旅行をLSCとして再開を決めたのは昨年8月でした。行き先は台湾にしたのは会員の希望もありましたが、やはり距離的に近い台湾が観光受け入れを再開していたこと、さらに旧会員だった西田学氏が台北にお住まいになって協力が得られること、さらに多くの会員が複数回の台湾旅行経験があり馴染みがあることなどが原因でした。

LSCの海外旅行として今回は旅行業者のパッケージツアーを利用いたしました。旅行社はHISでした。3泊4日すべて自由行動のものを選び、宿泊とフライトと空港からホテルまでの送迎のみを利用し、台北および台北近郊の観光は私たちで計画し、参加人数が16名と多かったため、台北市近郊の観光は2つのグループに分けました。申し込んだ旅行社の日程は3泊4日で初日は台北桃園空港に3時到着、最終日は桃園空港、朝6時40分の便で帰国となっていました。実質は二日半の自由行動の時間があるだけでした。したがって初日の12月11日はホテル夕方到着後、夕食も含めて夜市見学、12日の日は西田さんの案内で市内観光、夜全員で宴会を兼ねた夕食、13日の日は台北郊外観光でグループを二つに分け1つが十份天燈上げと平渓線の旅、2つ目は淡水と北投温泉観光として各自好きなほうを選択してもらうことになりました。

以下写真を中心に参加者皆さんの様子を中心に纏め、後参加者の感想などを報告し今後のLSC海外旅行企画に生かしていきたいと思います。

成田空港、搭乗直前の参加者の笑顔

12月11日出発のフライト便は、成田発11時45分のスクートTR899,集合時間は第一ターミナル南ウィング4階のチェックインカウンター、朝早いのでなかなか大変でした。鹿児島から2名の参加がありましたので、お二人は前日に東京でお泊りになっての出発でしたので更に大変だったでしょう。全員無事集合され出国手続きを済ませました。

 往復とも SCOOT に搭乗

行機は満席で少し遅れて飛び立ち、台湾時間午後3時ごろ桃園空港に到着いたしました。

桃園空港で入国手続き。これでいいのか?
ガイドさんから台北紹介受けながら、ホテルに向かう
中山北路のホテル(グリーンワールド山水閣)に到着

最初はホテル到着後全員で夜市(寧夏夜市)見学して、そこで夕食も食べる予定でしたが人数が多いので、もう一つべつのグループに分け台北市内で有名な小籠包の店で夕食をとることになりました。夜市のほうは、徒歩でホテルから15分というので徒歩で向いましたが、なかなか見つからず到着までに時間がかかってしまいました。

寧夏夜市の雰囲気屋台、屋台、屋台、人、人、人

市ではではいろいろな屋台がでて地元の人はそこで食べていたが、私たちは通りに面したレストランで夕食となった。

寧夏夜市のレストランで夕食
 
歩き疲れて一休み
団子もイイネ!

もう一方のグループは東門にある小籠包の店(鼎泰豊)での夕食となりました。

12日 西田さんの案内で台北市内見学と夜、全員による晩餐会パーティー。

西田さんの案内で晴光市場に

銀行で両替

全員による晩餐会パーティー

パーティ会場の海鮮料理屋
峯尾さんご夫妻も到着!
宮下リーダーの音頭で乾杯!!

西田さんスピーチ

◆13日 平渓線グループ

十份の天燈上げ
平渓線車中で!
 十份にて、我々も皆の願いを込めて天燈上げ
十分駅
お土産も買ったし!

◆淡水、北投温泉グループ

淡水にて
清国英国領事館
北投温泉地熱谷池
台北に戻り、梅子餐廰にて夕食
14日早朝 帰国のため空港へ ホテル前全員で記念撮影
台湾よサヨウナラ、また来るからね!(朝日を受ける桃園上空より)

参加者感想

最後に箇条書きで、今後の参考のため参加者から得た感想とご意見を記載してLSC台湾旅行の総括とさせていただきます。(大野理事長)
*パック旅行と違いいろいろな場面に出くわし楽しかった
*旅行業者への支払いその他の費用も含め10万円以内で収まったのはよかった
*折角の海外旅行なのでもう少し日程があればよかった
*高齢者が多いので、費用のレベルアップを考えたほうが良い
*フリータイムの旅行は各人がリーダーに頼るのではなく
各人が事前に行き先などを調べて勉強しておく必要がある。
*グループ分けは必要だが、食事コース、観光コースなどアイテムを変えて分けるのもどうか
*淡水グループでは北投温泉が良かった
*台湾の旅楽しかった、また企画してください
以上

                                   

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ミャンマー奮闘記(第2報)

投稿(文、写真) 谷口良雄さん HP編集 中村一彦

谷口さんは昨年4月にミャンマーの日本語学校に招聘され、5月には渡航されました。
第一報は昨年8月に掲載されましたが、今回は第二報です。
内戦状態にあるミャンマーでのご活躍はご苦労があるかと思いますが、日本語教師として、信頼される立場に有り、日本での就職を希望するする生徒さん達の教育に日々専念されています。ミャンマーの現場から奮闘記(2)をお送り致します。

ミャンマーの気候
ミャンマーから日本に行った元学生から「日本はとても寒い」という声を聞きます。ヤンゴンにいる学生も、朝晩は「寒い」と言います。今は乾季で雨はほとんど降らず、昼間は毎日30〜33℃の晴れ間が多いです。陽射しは強くて暑いです。でも朝夕は涼しくて、日本の秋の季節のようです。

昨日は「介護クラス」の卒業イベントが教室で行われました
学生たちが企画して、お金を出して私たちを招待してくれます。
卒業後、多くの人は故郷に帰って、ミャンマー政府の出国許可と、日本政府(入管)からの入国許可を待ちます。しかし、数カ所の故郷では「政情不安」のため、帰ることが出来ないところもあります。
道路が寸断されている。通行禁止になっている等です。
数人の家族は、街全体が内戦状態(国軍と民主派勢力との戦闘)で、住民の全てが避難してしまったとの事です。森の中で、ボランティアの支援(衣類、食料など)を受けてテント生活の家族も居るようです。
今は、自宅がどうなっているのか分からないので、帰宅できないといいます(国軍が占領中かも)
そのため、ヤンゴン市内に友達と部屋をかりたり親戚や友人にお世話になったりします。
お寺に寝泊まりする人や、日本に行くまでの間アルバイトをする人もいます。
日本語学校に限らず、韓国語学校や英語学校には大学や高校をやめた学生がかなりいます。
彼らは、現政権反対の意思表示の一つとして、「不服従運動」に賛同し、大学、大学院、高校を中退した若者は多いようです。
民主派の統計では、大学生の80%が登校拒否(その殆どは自主退学)してるそうです。
そんな政情の中で行われた日本語学校「卒業イベント」ですから、若さの爆発というか秘めたエンルギーがほとばしった会になりました。
あこがれの地、日本!に無事行ける日が来る事を心の中で願うしかありません。

介護クラスの卒業イベント

右、前から三番目に谷口先生がいます。

↓下記の画面をクリックして下さい。動画がみられます。

道路の穴は、もう半年以上補修されないまま。ヤンゴン市内至る所に・・・・
ここを夜バイクや自転車に乗った人はどうなるのでしょう?

朝7時頃、お坊さんに食べ物を差し上げるボランティアの少年達。
彼らは裸足が多い。
殆どの人は普段サンダル履きです。(私も)

比較的治安がいい、ヤンゴンの
ローカルの朝、美しいですね!

学校を卒業して、これから日本に向く日の朝。老人介護施設の介護士、ラーメン屋の店、、室内デコレーション などの仕事で。

今も、ミャンマー各地で 国軍と、それに反対する少数民族の武装組織(大学中退者が多く加入している、とされている)が衝突を繰り返す地域(✖️印)。  日本外務省では「渡航しないこと」と警告している地域。。

私が勤める日本語学校には日本に行って、介護士として働くための「介護クラス」があります。そのクラスの学生に作文(何を書くかは自由)を書いてもらいました。日本語学習歴はまだ 半年〜10ヶ月程度なので、内容的に深い文章ではありませんが・・・・・。
ミャンマーの若者らの生の声を知っていただきたいと思い、ここに紹介いたします。

題名………「私の故郷」
私のふるさとは小さくて静かな村です。お祭りがたくさんあります。
たいてい、宗教的なお祭りが多いです。その中でクリスマスが一番楽しいです。昔はクリスマスになると、夜、実家に帰って歌いました。しかし、今は政治によって 歌を唄うことが禁止になりました。
正月にはいろいろなスポーツをします。その中で、サッカーが大好きで楽しいです。お祭りには友だちと集まって、ビールやジュースを飲んだり、いろいろな物を食べます。
村人の多くは農業です。また、女の人の多くはお酒を作っています。
米で作るお酒です。そのお酒は私たちの伝統的なものです。
私の村に住む人たちは親切で、困ったときは手伝ってくれます。
村には山や川があり、川では釣りが出来ます。私たちばかりじゃなく、
ほかの村の人たちも来て釣りをします。村の周りに田んぼがあります。苗を雨季に植えるので村の周辺はもっときれいになります。 (女性 27歳)

題名………「願い」
政治の状況が悪くなって、まもなく3年にります。 ミャンマー国内のどこでも戦争のことを聞きます。私の街にも戦争があります。戦争のせいでたくさんの家が壊され、大勢の人が死にました。多くの人たちは自分の街に住めませんから、ほかの村や町に引っ越しました。私の家族もその中の一つです。
家族は今、田舎に引っ越しして いろいろな苦しみに直面しています。
電気も無いし、インターネットもありません。交通機関はとても悪いです。
私は今、便利なヤンゴン市にいますが、家族に聞きたいです。
「今、何をしていますか」「元気ですか、食事はどうしていますか」
「今、冬ですから寒いでしょう?」
私は故郷に帰りたいですが、帰れないので家がとても恋しいです。
故郷の家が壊されているのかどうか、状況を知りたいです。
かっては、賑やかで美しい村が恋しいです。家族の悪い状況が終わって、自分の家に帰り、のんびりと休みたいです。家族に会いたいです。もし、いつか自分たちの家に帰ったら、家族と美味しいものを食べたり、おしゃべりをしたいです。家族と一緒に楽しく温かく過ごしたいです。
今の状況が早く終わるように願います。 (20代、女性)

*注)「私の故郷」の作文の中で、
「歌が禁止になった」というのは「政治的な歌は禁止になった」の意味だと思われます。(谷口)

                                       以上

*この投稿を読まれて、感想文が来てますので、ご紹介致します。
お忙しい中で谷口さんの紀行文をUPしていただき、ありがとうございました。写真で見ると、学生たちは明るい顔をしていますが、作文を拝見すると皆さんが大変なご苦労をされていることがわかります。家族のところに行く事も出来ない、家がまだあるのか、家族は無事なのかさえも不明、ということは大変な心痛と感じます。皆さんが無事に日本にきて、生活が安定して、家族に仕送りをして家族が平穏に暮らせることを祈るばかりです。どうもありがとうございました。(宮田敬生)